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この言葉は誰のものか

自分が思わず発した言葉に、自分自身でびっくりするような経験、みんなはありますか?
例えば、友達に何かを相談されて、それに対して自分がした回答に自分で驚いて、それについてしばらく考えたりする。そんなことが最近ちょくちょくある。
そしてふと思った。
その時僕の口から出た言葉は本当に僕の言葉なんだろうか。と。

自分の口から出た言葉なのに、どこか他人のようで、
それがどんな意味を持つのかを自分でも理解できていないことが多くある。
あれってどういう意味だったんだろうって、しばらく考える。
でも大抵答えは見つからない。
自分の口から出た言葉なのに。

そもそも、自分の口から出たから、その言葉が自分のものなんていう認識が間違っているのかもしれない。
例えば、誰かに可愛いと言ったとき、その可愛いって言葉は僕から発せられたものだけど、僕に属するものではない。その人が可愛いから出た言葉であって、僕は言うべくしていっただけである。
その場合、僕が言葉を発したのではなく、言葉が僕を通して、本来在るべき場所に飛んでいったとも考えられる。
僕は根本から大きな勘違いをしていたのかもしれない。
僕らが言葉を操っていたのではなく、
言葉が中心であって、僕らは媒介になるものでしかない。のかも。

そう考えてみると、色んなことに納得する。
自分の口から、言葉が溢れだして止まらない経験、みんなにもあるだろう。
その時、自分が自分ではないように感じる。
自分の口が勝手に動いていて、言葉が全て口から出きった時に初めて、自分の口から出た言葉に対面する。
そうして驚くのだ。
その言葉と、その言葉を発した自分に。
言葉が中心であって、僕らは媒介になるものでしかないと考えると、その時自分を動かしているのは言葉なんだとわかる。
言葉が、僕の身体の所有権を持ち、口を動かして、自分が在るべき場所に飛んでいってるんだと。

言葉が中心であって、僕らは媒介になるものでしかないのなら、僕らが発する言葉に、僕らの意思などが反映されることはないのかと考えてみると、きっとそんなこともないだろう。
媒介されるものである以上、僕らを通して出る時に、個人個人のフィルターを通っている。
つまり、僕らはその言葉を振り分け、選ぶ作業を行なっているのだ。
その振り分けられる作業にこそ、人によって違いがあり、そうして個性が生まれるのだろう。

言葉が溢れでて止まらないときは、そのフィルター機能がうまく機能せず、なりふり構わず外に出ていってしまってる状態だろう。
だからこそ、その言葉と対面した時に、僕らは後悔することが多い。


気づいたら哲学みたいな話になっていた。
自分が友達に発した言葉の意味が自分でわからないとこから、こんなとこまで来てしまった。
今、僕を媒介し、さらにnoteを媒介し、外に出ている言葉はどこに属するのだろうか。
言葉に対する謎は深まるばかりだ…



言葉が口から溢れ出て止まらないことがあると、本文で言ったけど、そういえば数年前に公開された「サイダーのように言葉が湧き上がる」というアニメ映画があったこと思い出した。可愛くて良さげなのでみんな見てね、ネトフリで見れるよ確か

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