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長編連載小説 Huggers(50)

義弟の真摯な言葉が沢渡の心をえぐる。

沢渡  8(つづき)

「姉はここにはいません」
 おそらくそうだとは思っていたが、はっきりと言葉にされるとやはり体が地面に沈み込んでいくような失望感に襲われた。
「居場所は聞いてる?」
 少し間があった。
 義母に会いに行ったときと同じような苛立ちを感じる。
 疎外感なのだとそのとき気づいた。自分だけがかやの外に置かれている感覚だった。
「おたくの家族は、仲がいいね」
 思わず口から出た。
 画面の向こうで義弟の表情が硬くなる。
「今はお義兄さんが、姉の家族です」
 胸に突き刺さった。
「……そうだね。だけど」
 絞り出すように言った。
「その今の家族に、詩帆は居場所を知られたくないみたいだ」
 仁志が苦渋の表情を浮かべた。迷いが伝わってきた。ふくらみかけた怒りが、何かに変化していくのを沢渡は感じた。義母も仁志も、決して詩帆の居所を教えたくないわけでも、嫌がらせをしているわけでもないのだ。ただ、自分と同じように、詩帆にとって何が一番いいことなのかを考えているだけなのだ。
「姉は、あなたを苦しめるために家を出たのではないんです」
 何かと葛藤するようにゆっくりと仁志は言った。
 なぜみんな同じことを言う?
 加乃も、義母も、西野も、似たようなことを言った。
「じゃあ、どうして?」
「それを言葉では言えなかったから。あるいは言葉にしたけれど、うまく伝わらなかったから――じゃ、ないでしょうか」
 画面の向こうで、木枯らしのような風の音が聞こえた。十一月のミシガンはどんな気候なのだろう。
「この際なので、正直に言わさせてもらいます」
 仁志は姿勢を正した。
「姉にもきっと至らない点はたくさんあったと思います。ですが、僕たち家族は、あなたに対しては不満を持っていました」
 目を上げてまっすぐにこちらを見た仁志の視線を、長く受け止めることはできなかった。
「家族のかたち、在り方なんてものは、家族の数だけあるんだと思います。うちの家族のスタイルにこだわる必要はないし、押し付けることもできません。あなたにもいろいろ家庭のご事情があったようだし、だから、法事や親戚の祝い事に来ないとか、元日にしか来ないとか、そういうことをいまさらとやかく言うつもりはありません。ただ」
 珍しく感情がこみあげてきたのか、仁志はいったん言葉を切って、くちびるを噛んだ。
「ご存じがどうかわかりませんが、父はああなる前、姉をとても心配してました。あなたが姉を、本当に大切に思っているのか疑問だと。一度問いただしたいと」
 義父は認知症を発症し、今は施設に入っている。
「そうなんだ。詩帆はそんなことは一言も」
「父はとても姉を可愛がっていたし、姉も父思いで、仲良しの父娘だったのですが、その父に対しても、姉はあなたのことをかばい続けてきたんです。複雑な家庭に育って、つらい思いをしてきたから、家族とどう関わっていいかわからないんだって。いつかちゃんと話をしてくれると思うから、もう少し待ってほしいと。何度も泣きながら父とケンカしてました。ほんとは、父母を心配させていること、すごく心を痛めてたと思います。それでも、ずっと待ってたんです」
「夫婦だから、すべてを話すべきだとは、僕は思わない。人にはどうしても話したくないこともあるし。でも、詩帆がそっとしておいてくれたこと、無理に聞かないで黙ってそばにいてくれたことは、僕はずっと感謝してたんだよ」
「それを、姉に伝えましたか?」
「え?」
「過去を話すとか話さないじゃなく――そういう気持ちを、感謝とか、あなたの思っていること、考えていることを、姉に伝えましたか? ただそばにいてくれればそれでいいっていうことを?」
「そういうのは、僕は苦手で――だけど詩帆は、言わなくてもわかってくれてると思ってた。受け入れてくれていると」
「姉のことは、どうですか」
「詩帆のこと?」
「受け入れてました? 姉があなたのそういう部分を受け入れていたように、姉の大切にしていることや、望んでいることを」
「それは――」
 仁志はしばらく、黙っていた。背景に、赤ん坊のぐずる声が聞こえる。
「前に一度だけ、姉に聞いたことがあります。なぜ、あなたと結婚したのか。この人に、あたしのうちみたいな、幸せな家庭を作ってあげたいと思った。そう姉は言いました。大学であなたと知り合ったごく最初のころに、そう思ったそうです」
 大学のテニスサークルの新歓コンパで最初に詩帆を見たときの印象は、「小柄で、よく笑う、感じのいい子」だった。話しているとほっとして、優しい気持ちになれた。別れ際に手を振ったとき、ふと可視的でない光が心を照らしたように感じた。また会いたいと思った。
「もしかしたら姉のそういう思いは、あなたには、ありがた迷惑な話だったかもしれません。うっとうしく感じられたかもしれません。子供を欲しがったのも、姉のわがままだったのかもしれません――ですが」
 ふいに、あの実家近くの池のほとりで、詩帆と手をつないでいたときの記憶がよみがえった。沢渡の手を握りしめた、小さな詩帆の手の感触。
「姉はあなたのことを、本当に愛していたんだと思います」
 感情を抑え、たんたんとした仁志の言葉に、先日の西野裕子の言葉が奇妙に重なった。
 奥さんはあなたを愛していますよ。誰よりも、深く、強く。
「ただもう、疲れてしまったんだと思います。自分があなたに何もできないことに。無力感を感じていたようです」
「何もできないなんて、そんなこと」
 言いかけて、沢渡ははっと顔を上げた。
「詩帆と話したの?」
 画面の相手は黙っている。
「そちらにいたんだね? いつですか? 最近?」
 逡巡する気持ちが、画面を通して伝わってくる。
「仁志くん。僕は愚かだった。ほんとうに、バカだった。詩帆がいなくなって、やっとわかった」
 あなたがもう一度、愛を知るようになるためなら、自分が壊れてしまってもいいと思うくらい。
「やり直したいんだ。もう一度、話したいんだ。結婚して十年もたつのに、僕は詩帆のこと、何も知らない。知ろうともしなかった。何を考えていたか、何を愛して、何を大切に思っていたか。だから知りたい。そして僕のことも知ってほしい。もう、遅いのかな。もう、一パーセントも、望みはないのかな?」
 義弟はすこしの間じっと、沢渡の顔を見ていた。みっともない、すがりつくような、必死な形相になっているだろう、と思った。でももう、そんなことはどうでもよかった。
「姉は二か月前にここに来ました」義弟は静かに言った。
「そして、出産前後の手伝いをしてくれました。紗智をいっぱい、抱っこしてくれました。二週間前に、ここを発ちました」
「どこへ行くとは言ってなかった?」
「はっきりとは。ただ、気が向いたらニューヨークの友人をたずねるかも知れないとは言ってました。その方の名前や連絡先はわかりません」
(つづく)


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