ありがとうにセイグッバイ(恋をしても7,500字書くこの頭の固さよ)

「恋をしても」と書いたが、おそらくわたしは恋をしていない。相手の好きなところとか、いいところだとかが、とりたてて思い浮かばない。
ただ、ふいに、あの髪をなででみたいと思った。

黒くて太くて硬そうな、パーマいらずのくるくるの髪。やっぱり案外手触りが悪くて、ちょっとがっかりするところまで込みで、あの髪に触れたい。

本人は天パを気にしているから、口には出さないが。


電車の中で、肩にフケがのっている人がいたら必死で距離を取る。でも彼のスーツの背中に見つけたときは、
「めっちゃゴミついてるよ」
と、平気で素手で払うことができて、おどろいた。
「来る途中犬なでたからかなあ」

そんなんでゴミが背中につくかよ、と思いながらも、「そっかあ」と円満に納得しておくと、不思議に気持ちがやすらいだ。
彼の膝に頭をのせている、柴犬の写真をみせてもらった。
口をついた「いいなあ」が、
「柴犬とあそぶのいいなあ」ではなくて、「この人に頭なでてもらえるのいいなあ」だったので、我ながら驚いた。


でも、これが恋だったとして、みのりそうな気配もないし、みのらせようとする努力もできない。
要件をつくらないとLINEできないし、ちょっと相手をしてくれてもすぐ、適当なスタンプしか返ってこなくなる。
いつどこに行けば彼に会えるかはわかっている。接触回数を増やせばおのずから人間は人間に好意を持つのだということも知っている。
でも面倒くさくて、結局会うこともないまま何ヶ月もたって、それでもいっこう平気でいる。会ったときだって、別にどうでもいい話しかしない。
髪をなでたいと思ったのも、柴犬をうらやんだのもたぶん二、三年前なんじゃないだろうか。

今年あるいは来年くらいのうちに、会いたくってもどうにも会えない距離になることは、予想がついている。わたしが遠くに行くかもしれないし、彼が遠くに行くかもしれない。たぶんそれはまったく唐突に訪れる。気づいたときにはもう手遅れだ。


気づけば、彼とはじめてあってから六年近くになる。
そういえば、週に何回もあっていたときもあったし、会わずにいるうちに、名前を忘れていた年だってあった。
なんだかわからないけれど、脈略なくコーヒーをおごってくれて、「なにか悩んでるのかなと思って」と、相談にのってくれたときもあった。

わたしは常に悩んでいるので、なんで相談にのろうとしてくれたのかもわからないし、何を相談すれば彼の「相談に乗ろうという姿勢」にこたえたことになるのか。よくわからなかった。
もちろん、何を相談したのかも覚えてない。なにか適当に相談して、なにか適当なアドバイスをもらっておいた。
これで相談に乗ってもらったことになれてるかな、向こうは満足したかな、と思いながら、ちょっと一緒に池を見た。

わたしはブラック、向こうは抹茶オレ。コーヒーは苦くて飲めないらしく、においさえ苦手らしくて、それがよく似合う彼だった。でもそれならどうしてわざわざコーヒーをおごってくれたのか。
コーヒーをおごることに、彼の中ではなにか記号的な意味があるのだろうな、と思って、考えるのをやめた。

後日、「まだなにか悩んでいるの」と言われた。わたしの何が悩んでるっぽいんだろうか。全部だろうな、と思いながら、まあなんか笑っておいた。
わたしはどんどん何もかも面倒になって、メイクも服も適当になった。彼が家に遊びにきたときだって、平気で目の前でマスカラぬっていた。


ふつうにモテそうな、ふつうにいい人だった彼だけれども、ひところは、しょっちゅう彼女がいない、という話をしていた。
「あ、爪伸びてる、彼女いないのバレちゃうな」
いいこちゃんのこいつにしてはなかなか際どいもんだな、とおもしろがりながら、知らん顔した。
「切るよりけずったほうがいいよー」。
わたしは素直じゃないし、駆け引きとかをしようという心構えがまるでなっていなくて、それを身につけようという気もない。ただ、思った通りのことを口にした。実際、爪は削ったほうがいい。


はじめてあった頃の彼は、優等生然としたいいこで、甘えが服を着て歩いているような、弟なるもののイデアのような風情だった。ひまわりみたいによく笑い、よく質問し、いろんな人に叱られていた。何を話すときも目がキラキラしていた。わたしには目標があって、彼のホワホワ感につきあう気は毛頭なかった。
本当は彼だって、怒られるのはつらかったし、心からホワホワキラキラしてたわけでもなかったと知ったのは、それから5年近くたったころ、つまりこの文章を書いている今からみて4ヶ月前のことである。


六年間、わたしがあちこちけつまづいて、どんどん当たり前にできていたことを失っていくあいだに、彼は順調にすくすく、たくましく育った。彼のまわりには、自分は自分、という境目がはっきり見えるようになった。
相変わらず人当たりはよかったけれど、後輩に質問されても、早く会話を切り上げて自分のことに集中したい、というのが見え見えだった。
どっちもが気の毒になって、話を引き取ったら、彼はその行く末を見届けることもせず、さりげなく、いつの間にか帰っていた。

わたしは彼のそういうところが怖かった。最初の最初にあったときから怖かった。それはたぶんわたし一人に限ったことではなくて、彼はいろんな人に「笑顔がうさんくさい」とか、「心がない」とか言われていたようだった。
だから、最初の一年の秋、同期が一人、先輩にめちゃめちゃに飲まされているのを見ていた彼の顔が、いたく怒っていたのを見て、わたしは笑った。安心した。
そうそうに先輩から逃げて、遠くから見ているだけのこずるさも含めて、普通だなと思った。
こんなにまっとうで、ど真ん中に普通で、自分本位の人がいるもんだなと思った。今ならば、自分本位というのがどれほど難しく大切なことであるか、そしてどれほどわたしができていないかわかる。

でもやっぱり、わたしが全然うまくできないでいることを、ことさらに
「○さんはこうこうできるからすごいと思う」とか、
「なんでそんなに頭いいの」とか、
いう彼のことは、怖かった。よりによってわたしよりはるかに頭のいい上司の前で言うものだから、あてこすりだろうか、わたしを困らせて楽しいのだろうかと思った。
そんなふうにうがって考える自分のほうが意地悪なのはわかっていた。でも実際、上司の苦笑いが怖かった。


去年は、大好きな先輩(いつもたくさん手作りのお菓子をくれる)にどうしてもあげたくて、珍しくバレンタインにクッキーを焼いた。ついでに、彼にもあげた。何のついでだったかはもう覚えていない。
でも、あげたのは二月十三日だったし、自分でもあげてどうしたいというビジョンは何もなかった。
向こうももちろんバレンタインだとはわかっていなかったけれど、何かの流れでそう言ったら、お返しにお菓子の詰め合わせをくれた。おいしくいただいた。

今年は、ちょうど、本を貸していたのを思い出して、二月十四日にかえしてもらった。日付は偶然だったが、返すのが遅くなったからと、成城石井とかで売っているおいしいチョコレートを一緒にくれた。
実際一年くらい貸していたから、もうかえってこないかなと思っていたのに、催促したらすぐ、貸した時のそのままの袋で、綺麗なままかえってきた。しかもちゃんと中身を読んでいて、驚いた。
あれはバレンタインだったのかもしれないが、ホワイトデーは忘れているうちに終わっていた。


思い返してみれば、あいまいで、遠回しな向こうのなにかを、わたしはずっと何とも思わずにスルーし続けた気がする。あのチーズケーキくれたの何のときだったっけ、と思い出そうとしても、思い出せない。

なんでだったか、ふいに彼が言い出した。
「Aくんが、○さん(わたし)は□□さん(わたしが一番仲いい同期)か□□さん(彼自身)と付き合ってるんだと思ってたって」
「教育実習で「○○先生って隣のクラスの○○先生と付き合ってるんですか?」って聞いてくる中学生みたい」
わたしはその後輩のAくんの発想がかわいくって、正直にそのまま言った。
「世界狭いな~」と笑った。
彼も笑っていたけれど、実際のところどう思ってそんなことを言い出して、どう思ってわたしの答えを聞いていたのだろう。


たぶん、向こうも、別にわたしのことが好きではなかったのだと思う。ただ、彼女がいなくて、かつ彼女がいないといけないというような思い込みがあるので、とりあえず手近なわたしになにか言っていたのではないだろうか。
ホルモンバランスの変動に応じて、ときおり誰かに甘えたくなり、髪をなでてみたくなるわたしと似たようなものだろう。


わたしは彼の、「男とはかくあるべし」というような思い込みを心底いやだと思っている。「おれガリガリだから~」「いつも姉ちゃんに筋肉ないってバカにされる」という。
でもわたしが彼のいちばんすきなところは、やせているところだ。背が高すぎないので、わたしの視界の中で、じつによいバランスの縦長のフォルムを保っている。

わたしの思う男性美というのは、骨格のうつくしさ、直線のうつくしさであり、給水塔のような彫刻美である。そこに、よけいな凹凸と丸みを加える筋肉はきらいだ。
そして、その個人的な好み以上に嫌なのは、男性を「むさくるしい」とか「汗臭い」とか「花がない」とか、見苦しいもののように自己規定し、そこに安住する男性の言葉。ぜんぶきらいだ。
あなたたちは美しい。見られる立場から逃げるな、美しくありえた自分の可能性から逃げるな、抑圧に抗うことから逃げるな、と思う。
だからいっつも彼には、「やせてるのが好きな人もいるってー」と返す。
さすがに、あなたは美しいとまで言われたら重すぎるだろう、という判断はするわけである。

たぶん正直に、「わたしはやせてるほうが好きだよ」とか「そのままがいいよ」と言うべきなのだろう。でも、可能性は広ければ広いほど彼にとってはいいことだと思うし、彼が思う彼らしさ、かくありたいと思う自分が、筋肉ムキムキマンなら仕方がない。
本当は、彼のことをわるくいう人の言葉に耳を貸さないでほしいけれども、誰の言葉を大切にするかは全部彼の自由だ。


彼は自分が普通であることを気にしている。家族の七割がAB型で、同姓同名の人は(漢字表記こみでは)たぶんいなくって、奇矯な癖をいくつか持っているわたしのことをうらやましがる。
わたしは疑似科学なんて一秒でもはやく滅びればよいと思うし、そんなものを気にする彼のことをけっこう本気で軽蔑する(彼の立場で、そんなことを信じるのは社会にとって有害だと思う)。同時に、彼の、普通のことを普通にできるところを尊敬している。

彼はよく誰かのことを褒める。でもその声音には妬みと劣等感が隠しきれずにじんでいて、いつも彼が他人と自分を比べていることを如実に示してしまっている、とわたしは思っている(あたっているかは知らない)。
それなのに、気まぐれに、
「○○くんは人のいいところを見つけるのが上手だよね」
とか言ってみた。隣から、喉の奥が鳴るのが聞こえて、一瞬遅れて、声がした。
「ありがとう」
うさんくさいくらいにつらつらと喋る彼が、言葉に窮するところを、それまで一度も見たことがなかった。そのときだって、わたしは傘をさして前を向いていたし、向こうも同じだったから、見てはいない。


わたしはつくづく素直じゃない。本当はおしゃべりで、恋人とはたくさんLINEしたいのに、
「連絡するのとかめんどくさくて」などと強がってしまう。
「そう?おれは毎日LINEしたり電話したいほうだけどな~」とか言ってた彼に、
「真逆だね~」と笑った。
わたしはどうしようもなく驕っていた。自分が驕っていることにまったく気が付かなかった。


彼がわたしのことを多少なりともかまいたかった時期はもう過ぎたのだろう。もう時間は戻らないのだろうなという気がする。

自分が彼のことを好きなのかも、わからない。こうして書いてみると、好きとはいわないんじゃないかね、とも思う。
でも、このままいけば、きっと近いうちいかんともしがたく疎遠になって、敬語でしか会話できなくなるだろう。そのとき後悔しないか、ちょっと自信がない。

たぶんわたしが彼のことを好きな理由は、細い体と、くるくるの髪だけだ。あとは動物が好きなところくらい。元恋人がとにかく憧れで、何においても目標だったのとはわけがちがうけれども、きっとわたしは、彼にとても大切なことを2つ教わっている。


なんでだったか、わたしが周りの男性たちを品評するような流れになった。それは、居心地のいいことではなかったし、ひとつも本心は言えなかった。でたらめな理由をつけて、○○くんは○○だから付き合えない、というようなことを列挙しないといけなかった。
わたしが話したことは自分を含むすべてへの嘘だった。そんな流れに従うべきではなかったのに、わたしは話してしまった。そんなときに、彼は、くしゃくしゃ目を閉じながら、耳を手でおおって、
「聞きたくない~」と言った。怒っている声音ではなくて、本当に聞きたくなさそうな、不安そうな声だった。びっくりして、わたしは二の句が継げなくなった。

わたしは自分が誰かを傷つけることはありえないと思っていた。ごきぶりに好かれてうれしい人は少なかろう。わたしに嫌われたってみんなうれしいくらいだろうと思っていた。わたしが誰かに影響を及ぼせるはずなんてないと思っていた。
そう思い込めるくらいに、自分自身のことが嫌いだった。それがどんなに愚かで、自分勝手なことか、彼に気づかせてもらった。
気づいたからといってなかなかすぐには変われなかったけれども、あんなにありがたいことはなかった。「聞きたくない~」は、その言葉が発された瞬間からずっと、わたしの宝物であり続けている。彼の髪に触れたいと思ったときよりも、ずっと前のことだ。


わたしは彼のことが好きなのだろうか。もし好きだったなら、何をしたらよいか。
今あらためて考えてみて、いかに自分が優しくないか、よくわかった。
彼のいいところなんて全然知らない。ここまで書いてきたように、「自分が何をしてもらったか」を多少思い出すのが精一杯だ。それにしたって、「どうしてそんなことをしてくれたのか」は、考えたことがなかった。
わたしにとって役に立つ・役に立たないという軸でしか、彼を見てきていない。彼はそのとき何を思い、何をしようとしていたのか、一切汲もうとしなかった。

それは、わたしがコンテクスト依存性の強い(それは排他性に容易につながる)日本語の性質を嫌って、かたくなに「察する」「汲む」ことを嫌がってきたからだが、それはたぶん、いきすぎていた。
わたしが嫌っていたのは日本語だが、相手にはそうは映らなかっただろう。むしろわたしのほうが、必要な言葉を言葉にしてこなかった。

六年間も身近にいたのに、彼のためにわたしに何ができるのか、彼が必要としていて、喜ぶことは何なのかを、わたしは全然知らない。
ここ一年くらいは、ときどき、隠していただろう悩みをぽつりぽつり、打ち明けてくれることもあった。わたしは気持ちの上では共感していた。向こうだって、共感の言葉がほしかっただろうと思う。
でも、わたしは本当に悪い癖で、「わたしに共感されたって、「そんなもんじゃねえよ」って不快にさせてしまうのでは?」と思ってしまって、ちゃんと共感を表明してこなかった。


わたしはよく笑うほうだし、年下は無条件にかわいがるし、誰かのためになにかする、ということが、基本的にすべて自分の幸福につながるタイプだ。接客バイトをしているときは、楽しくて楽しくてしかたなかった。

こういう人間は、まわりからよく優しいといわれる。知らない人にも、知っている人にも。でもわたしは、全然優しくなかった。他人への興味をあまりにも持ってこなかった。だから、相手の気持ちを考えれば共感を示しておくべき場面で、自分の勝手な思い込みを優先してしまう。

ものすごく自分勝手で、でも、実際のところしっかりとした自分というものを持ってこなかった。自分に対してほんとうに優しくしてくれる人に優しくしないし、自分に優しくない人に媚を売って優しくする。
彼は自分本位だけれど、自分勝手ではなかった。わたしは自分勝手で、自分本位ではなかった。
こんなに大切なことに、何年も気づかなかった。


たぶんこれは恋ではないし、もうきっとみのらない。でも、彼のおかげでつかんだ、かすかななにかを、今、ここでつかんでおかないと、わたしはだめだ。そんな気がする。
次に、いつ彼とゆっくり話せるかわからない。もう機会はやってこないかもしれない。でももしその次がやってきたなら、もう今度は絶対に逃してはだめだ。
変な小細工をするのではなくて、自分の基本姿勢というものを確実に定めないといけない。

六年間も一緒にいれたのに、そのありがたさに気が付かないで、無駄にしてしまったこと、仲良くなりそこなってしまったことが残念なんだ、今からでも間に合うならば仲良くなりたいんだと、ちゃんと言葉に出さないといけない。
そういうふうに言える素直さを阻んでいるもの―たとえば自分自身への嫌悪感とか、コンプレックスとか、そういうものを一つ一つつぶしていかないといけない。それは、たぶんわたしにとってとても大事な作業だ。きっかけをくれた彼にまた感謝せねばならない。


そう認めてしまうと、また彼のことをわたしにとって役に立つ・立たないの軸ではかっているような気がして、ああいけない、と思うけれど、そうではない。わたしが変わることで、わたしのことも、彼のことも照らせる光にならないといけないと思う。今度はもう、感謝の気持ちを「ありがとう」ではなくて、別のかたちに変えていかなくては。

自分がそんなふうな存在になれるかもしれないと思うことは、自己肯定感の足りていない人間にとっては、ものすごくおそろしい。
自分で自分を憎み続けているほうが、よほど楽だ(救済をもたらすはずの世界宗教が、なぜ人間に「お前は罪あるものである」とつきつけるのか考えてみればよくわかる。)。

でもわたしは、社会的存在である以上、わたし一人のものではないのである。わたし一人のものではないからこそ、自分本位に生きねばならないし、美しくありえた自分の可能性から逃げてはならない。

わたしは彼に「ありがとう」ばかり言ってきた。「わたしのためになにかしてくれてありがとう」という言葉。
今度からは、「わたしのためになにかしてくれてもしてくれなくても、そんなこととは無関係に、わたしはあなたに会えて嬉しいし、あなたのことを知りたい」とい伝えよう。それが世に言う恋愛的な意味の「好き」でも、そうでなくても、やさしくなりたい。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?