「国語」を勉強する意味
国語を勉強する意味になんてない。
義務教育期間中、そう思ったことはないでしょうか。
少なくとも揺れたり、疑問に思ったことはあるでしょう。
それについて、私なりの答えを書いてみたいと思います。
国語なんて勉強する必要はない!?
「国語を勉強する意味がない」という論法の根拠は思いつく限り下記のものであると思います。
・日常生活で十分鍛えられる(普段日本語使っているのだから改めて勉強する意味がない)
・国語の読解問題の答えは結局は問題作成者の意見に過ぎない(答えは一つとは限らない)
その通りといえばその通りでもあるし、あるいは反論しようと思えば簡単に反論することもできそうなものですが、しかし大事なことはこういった枝葉末節の疑問に答えることではなく、「国語」でどういった能力を身に着けるべきかという本質的な問題について考えることではないでしょうか。
私は「国語」を学ぶ理由については「思考を言語化すること」であると思います。
たとえば読解問題を解いたとします。
それに対してあなたはAという答えを書いた。しかし解答を読むとBと書いてあった。解答にはこういう論理構成で解答がBであると載っていました。あなたは納得して、あるいは納得できずともこう答えるのが正解だとして、次に進みました。
おそらく中学から大学までの受験を経験した方はこのような流れで勉強を進めていたのではないでしょうか。
ほとんどの人は「答えであるBとそこまでの道筋」が大事だと思っているのではないでしょうか(私はそう思っていました)。確かに受験上はそれが大事なのでしょう。
しかし本当にここで大事なのは「なぜあなたはAという結論にたどり着いたのか」ということです。
問題作成者ではなく、あなたがどう考えたかが最も重要なことだと思うのです。
どんなに適当に解いたとしてもそこには必ずそれに至った道筋があるはずです。そこを言語化して、間違いがあれば修正してこそ本物の力につながるのではないでしょうか。
でなければ後々同じ間違いをしてしまいます。
仮に解法の暗記で受験を乗り切った場合でも、人生はそのあとも続きます。
大学での研究、就活、資料の読解、あるいは日常生活での友人とのやり取り。そのどこかで同じ間違いをしてしまうことこそ避けるべきことではないでしょうか。
あるいはどこにも間違えが見つけられないかもしれません。そういうこともあるでしょう。法律だって同じ条文からいくつも解釈が生まれるのですから、国語の題材にされている文章で一つしか解釈が見当たらないということの方が不自然です。
そういう場合は「Aという解釈もあるし、Bという解釈もある」でいいと思うのです。
答えを一つに絞る必要はありません。
国語で法律を教えるべき
法律を義務教育で教えるべきだということは、たぶん多くの人が思っていることでしょう。
ただその多くの人の論拠は「法律は身近なもので、社会に出てからとても大事なものだから」でしょう。
その考えには全面的に同意します。
役に立つものだから義務教育で勉強すべき。
私はそれに加えて「読解力を鍛えるためにも義務教育で勉強すべき」だと思います。
いろいろ勉強してわかりましたが、法律は言葉を定義して(大事な言葉は大抵条文中に定義があります)、誤読されないように論理構成にも注意しながら作ってあります。
各法律でそれぞれ言葉を定義しているから同じ言葉でも法律が違えば意味が変わってきます。それゆえいろんな法律を勉強すれば言葉の意義の重要性にも気づけますし、誤読しないようにまどろっこしい言い回しになっているから読解力の訓練にも最適です。
またいろんな人が研究していますので、ほとんどの思考についてはすでに言語化されています。
1、こういう趣旨のもとで
2、こういう条文になっているが
3、このように解釈することも可能である
といったように事前研究も多いので問題作成も簡単でしょう。
ただそうなると教員には事前に膨大な量の勉強が必要とされるので、「負担を増やすな」と現場の人々には怒られるかもしれません。
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