スクリーンショット__97_

日本のホームスクール|公開版


 ホームスクールとはなんでしょうか。
 《親と子が みずから選択するまなびのスタイル》のひとつです。
  まなびの場、まなびのスタイル(ラーニングスタイル)をみずから選択し、創造することができる家庭それぞれのポリシー(哲学)に基づいたものです。
  ホームスクールは、親の方針にこどもが従うというものではありません。親と子の協働作業ですし、家庭で織りなす物語をいいます。こどもを取り巻くまなびの環境を整えるのが、ホームスクーラー(ホームスクールを実践する親の意。)の役目だということができます。しかしながら、親も子も互いにホームスクールを実践している仲間同志であるともいえます。なにせルールがありません。「こうすればホームスクールである」という定義もありません。日々を暮らし、成長していく、生きかたそのものなのです。


ホームスクールとよばれる様々なスタイル

 「ホームスクール」という言葉をインターネットで検索すると、とても多くの情報がヒットするようになりました。とりわけ2017年前後には急激に増えたように実感しています。 「果たしてそれはホームスクールと言えるのか?」と、つい考えてしまう事例もあります。ホームスクールには《こどもが主体である》という大前提があるからです。

  学校教育を、教育機会の提供を受けることができるひとつの選択ととらえることも重要です。加えて「学校は行くか、行かないかを選ぶことができる」としっかり認識していることが大前提です。
 学校に「なんとなく。そうなっているから」通ったり、通わせようと考えるのではなく、「なぜ・なんのために・なにを期待して」学校を選ぶのか。それを考える機会は必要不可欠なのです。その機会は、学校へ入学する前までに、かもしれませんし、こどもをどう育てるのかの家族の方針を語るときかもしれません。いずれにせよ、ホームスクールについて考えることは、同時に教育を受ける権利を知る出発点となります。

画像1

➀ホームスクーリング:

 親がこどもの特性に適した教材や指導方法を活用したり、それをもとにオリジナルの教材をつくるなどで習熟するカリキュラムを作成し、実行します。これにより既存の教育や学習方法では得られない効果を期待することができます。
 なにを身につけるのかは、それぞれの家庭や本人自身が必要とする能力や知識、技術等によって道筋は様々です。つまり日本の学習指導要領に沿ったカリキュラムにしばられず、まったく自由な、あるいは混合したまなびの道すじを描くことが可能になります。

 目的と目標の達成のためにスケジュールを組み、こどもひとりひとりの状況に合わせて、その進度や深さ、広さを柔軟に創意工夫して取り組むことができます。​ギフテッド教育にも適っているといえます。
 一般に「親主導型」とも呼ばれますが、こどもの特性を理解し、その才能を発揮するにはどうしたらいいのか、こどもの探究心や学習意欲、理解の発達段階等をふまえて、習得したいこと(カリキュラム)をどのように学び進めればいいのか(プログラム)、いちばん身近な親が知っていて、学習カリキュラムやプログラムを作成できるというものです。プログラムを進めていくうえで、一日や月、年ごとのスケジュールを管理を監督する役目を、親・保護者が担うことでしょう。

 ホームスクーリングは「こども主体である」と言うことができます。
 

②アンスクーリング:

 時間割がなく、「子どもの自主性尊重型」と呼ばれるスタイルです。

 こどもの興味関心がわきあがったその瞬間を見逃すことなく、その興味関心が行動にスムーズに移行するように、親はその環境を整えることを見定めます。

 ホームスクーリングと違う点は、それが計画的に進められるわけではないということです。こどもが学びに取り掛かるための環境作りをしますが、その準備が完全に整ったときを見計らって、こどもがそれに沿って行動を起こすとは限りません。こどもの意思決定を尊重します。大抵は、こども自身の内面で機が熟したときが始まりだと、多くのアンスクーリングの親は実感しています。
 親が身につけてほしいと希望することを子どもも希望するとは限りませんし、別個の人間として、互いの存在をまなびあいます。

 カリキュラムという計画書を作成したり、それに沿うことはまったくそぐわないスタイルであることは明確でしょう。こどもの気質によっては、この感性豊かな日々のまなびあいが非常に心地よく、安心を覚えます。人間性を高め、判定(ジャッジ)しないことや、生きるものの多様性を受け容れる土台ができあがります。自分の個も、相手の個も尊重できることから、協調性に富み、柔軟な社会性を身につけます。

 アンスクーリングを実践する家庭には、一見、 自然環境を求める家庭が多いようにも見うけられます。都会でもこのスタイルでのホームスクーラーはいるようです。森のようちえんや自主保育、自然学校などに親和性があります。確かに乳幼児の本能が本来の成長発達の道筋をたどるには、自然環境は最高のツールといえます。
 同じ規格でない自然の森の木々や土のもりあがりは、こどもひとりひとりで違っている背の高さ、筋力の強さ、バランス感覚、高低の認知、判断力、視覚認知などなど、それぞれの成長発達度合いに適した自分にとってちょうどよいものを、自分で選び、遊ぶことができるからです。
 しかし、ここで重要なのは本来の成長発達の道筋をたどることであり、自然環境のなかでなければならないという意味ではありません。こどもの個々の成長発達段階に的確な知育ツールも古くから活用されています。それらは前倒し・先取り学習とは異なり、適切な時期に、適切な発達を促すものとして活用されています。

  アンスクーリングの親たちがもっとも自分に戒めていることは、こどもが人として育まれていく成長を邪魔しないことだといえるでしょう。おとなが「これでよい」という作品にしあげることのないように心がけます。
 こども自身が意思決定したことを尊重し、必要な手助けを、必要な時におこない、同時に親である自分を決して犠牲にせず、親もまた個として尊重される存在であると互いに知っていくことが、もっとも重要なことだと思います。
 

③アンブレラ・スクーリング:

 複数のホームスクール家庭が集まり、同一のカリキュラムを共有したり、短期のプログラムに参加することをいいます。

 国によってはこのスクーリングに参加することで義務教育課程の履修と認められるというホームスクール制度があるようです。学校教育を受けている者と同等の学力を有すると認める資格試験を受けるために必要な授業を受けることもアンブレラスクーリングとしますし、在籍するスクールが提供するカリキュラムが自由で柔軟な課外授業に参加することでもあります。
 ひとつの家庭では難しい集団活動、あるいは大人数であるから用意できるプログラムに取り組む時に有効です。

 日本では自由な教育(どんぐりクラブやフレネ教育など、国の学習指導要領とは異なった指導方法をおこなう。)を、ホームスクール家庭でコミュニティを作り、共同で取組むケースが登場しています。
 ホームスクールの学習内容は学校教育法における義務教育(学校教育の学習課程)の履修としては認められていませんが、上記に挙げた教育法のいくつかは、国の学習指導要領によって組まれたカリキュラムでおこなわれているまなびかたとは異なった手法を用いて、よりわかりやすく、深い理解を伴って、理にかなった流れで指導します。方法は違うけれども、結果的には学校教育と同等の内容を身につけることができるといえます。学習指導要領が示す内容を越えた範囲も含まれますし、流れとしては習得する学年を前後するものも出てくるでしょう。

 各ホームスクール家庭では、身近でおこなわれる講座やイベント、サマーキャンプなどに参加するなど活動場所を拡げます。しかしながら、これらの参加には、日本では公的な経済的支援はホームスクーラーには与えられず、個人的な社会教育・家庭教育の活動とみなされています。

④School at Home スクールアットホーム

 学校教育(一条校でおこなわれる国の学習指導要領の目標やねらいに沿った学習課程)を家で再現するため、親が教師役を担ったり、学校の先生あるいは公的に派遣されている指導員の指導の元に、学校から出される課題や宿題を自宅で取組む(自宅学習)ことです。学ぶ場所を学校から家に移すスタイルで、‟School at home” スクール アット ホームといいます。

 学ぶ場所を移しただけなので、学校教育のような指導スタイルそのままに、テストの解き方やカリキュラムの進め方など学習のありかたを学校教育のそれに従うことになります。

 メリットは、 一条校の学校への復帰や進学するのがスムーズとなることでしょうか。テストの出題の様式を理解できるので、学校のテストを受けることが容易ですし、学校の授業の進度にも合わせやすいからです。
 ホームスクールの概念を知っていて、教育の多様性に理解のある家庭で注意すべきことは、家庭における学びと学校社会で通じる価値観念を、どのように受け入れ、どのように融合して、こどもを導くのかも充分に考慮しなければならない点です。
 学校に適応するために必要な考え方や行動、規律の理解と受容が必要になります。学校社会に社会化(適応)できることが、スクールアットホームの学習で重要な項目となります。

  スクールアットホームは、ホームスクールと区別します。
 ホームスクールとの決定的な違いは、 ホームスクールが各家庭にあわせてゆるやかにカスタマイズされていくのに対して、スクールアットホームでは学習する内容と指導方法は学校の指導にゆだねられることです。これは家庭で選ぶ普通教育に学校教育を選ぶのであれば、学校教育法に準ずる努力義務を課せられることを意味します。

 普通教育に学校教育を選ぶ自由も選ばない自由も、各家庭にあります。(普通教育と義務教育については別の機会に譲ります。)

こどもの ‟ラーニングスタイル” を知る

 机に向かって、イスに座って…といった態度は、一般的に「勉強している姿」にみなされています。そのような学校の伝統的なカタチ(School at home)ではなく、例えば「寝転がったほうが集中できる」「音があったほうが集中できる」などなど、こどもひとりひとりの特性を探り、その特性に適したまなびかたをみつけることを「ラーニング(学習)スタイルを知る」と表現します。

 これらは一見、いわゆる発達障害のある子と呼ばれるこどもたちの様子に似ているように思えるかもしれませんが、そうではありません。 実に「こどもらしい」だけなのです。

 こどもの《ラーニングスタイルを知る》方法の、もっとも効率的な方法は、親のアンテナを育てることです。こどもの反応に敏感になることです。声のトーン、表情や仕草が、いつ・どのように変化するのか。なんのために、そうしているのか。非言語コミュニケーションを高めることです。それは「パターン」を読み取ることであると言えるでしょうし、言語コミュニケーションも活用しながら、交渉するコミュニケーションができる信頼関係を築くことであるとも言えるでしょう。もっとも身近に過ごす家族に有利なことですが、とりわけ親においてはその人生経験による知見の広さ、受容の大きさが左右するかもしれません。
 こどもが親を成長させてくれるとは、まさにこのことです。まだ言葉を覚えていない赤ん坊のころに培ったコミュニケーションを、以降も途切れることなく育んでいくことです。まなびの段階が、年齢やましてや制度の区切りによって区切られるものではないと知ることになります。
 

まなびを選ぶ

  「学校に行くべき。学校は行かないといけない。」というような社会通念に従うことによってこどもを枠にはめこむことは、教育といえるでしょうか。それはすでに教育思想ですらありません。

 親は、こどもに普通教育を受けさせる義務を負っています。こどもがまなぶ権利を得る環境を、よりよい選択で整える責任を得ています。それらは日本国憲法および教育基本法で明確に示されています。さらに日本は国際的なこどもの権利に関する条約や宣言に批准しています。私たちの国、日本は、こどもの教育に対して非常に寛大です。ところが、そのことを一般に知られていません。なぜなのかを、ひとりひとりが考える必要があるでしょう。

不登校をきっかけに始まるスクールアットホーム

 一条校の学校への復帰と進学をスムーズにすることを目的とするスクールアットホームを選ぶ場合にはデスクーリングのプロセスは必要不可欠です。学校へ行かないことによる罪悪感といった学校信仰をとりのぞくデ・スクーリングが完了したのちに初めて、まなび場あるいはまなびかたの選択のひとつとして意思決定することができます。

 なぜなら、「選択することができる」という認識ないことには、一条校に登校するか、スクールアットホームか、ホームスクーリングか、アンスクーリングか、アンブレラスクーリングか、あるいはそのほかの自由教育(フリースクール)か、適応教室(教育支援センター)か、を選ぶ自由を与えられていることにはならないからです。その自由を奪うことは、こどもの教育を受ける権利を奪うことであり、親の義務を怠っていることなのです。

 同様に、いかに見えるカタチがホームスクーリングやアンスクーリングだとしても、それがこどもに合っていないにも関わらず、親の都合や一部の大人の思想によっておこなわれているのならば、やはりそれもこども自身の教育を受ける権利のはく奪です。厳しい言い方ですが、その答えは、子ども本人がよく知っています。親や大人への信頼と同時に自分自身への信頼感を得ているかどうかで、はっきりするでしょう。もっとも理想に近づける工夫と知恵をさまざまな人から手助けしてもらうことができます。

 ホームスクールを選ぶ家庭には、望んだ学習環境を整えることができない理由として、住環境や経済的理由、地域の教育資源(図書館や博物館、美術館などの社会教育施設。地域の理解。治安。)などあらゆる状況が考えられます。最も残念なことには、こどもの資質に見合った学校が必ずしも近くにないことです。公的な補助も、制度が未整備であるため、ほぼありません。ホームスクール家庭は、それぞれの工夫と知恵で、環境をととのえることに懸命です。転居をいとわない家庭もあるでしょう。なによりも周囲の手助けと情報収集がおおきな支えとなるでしょう。

 こどもに与える自由の選択とは、それを「こどもがやるべきことを、すべてこどもにおわせる」と考えて丸投げすることではありません。「親にできることを親がやり、こどもが自主的に自発的におこすまなびの環境を整える手助けをする」というスタンスであるかどうかではないでしょうか。
 親と子が他者であるという認識があるかどうかという点は非常に大きいと思います。いいかえれば、対等な人間としてその命を尊敬することができているか、ともいえるかもしれません。 何度も言うように主体を学校にゆだねているか、こどもあるいは家庭にあるかどうかの違いです。

 「自由をまなんでいる こどもの目は生きている」というのは、なにもいつも笑っている、喜んでいるということではありません。落ち込んでも、つらく、厳しいようなことでも、自ら選び、決意し、「目が死んでいない。意思を持っている」と伝わってきます。自由にまなんでいるというよりも、日々、《自由をまなんでいる》のだと考えています。だからこそ、自由でいる環境が必要なのです。

​De Schooling(デ・スクーリング)

 ​デ・スクーリングとは、学校に行かない事への罪悪感をとりのぞくプロセスのことをいいます。学校へ行かないというだけで植えつけられている罪悪感は、学校教育を唯一の教育と思い込んでいるために起こっています。
 学校へ行くことも、行かないことも、こども自身が選択するまなびかたの違いなのだと知り、自由なまなびへと移行するプロセスが必要なのです。

  もしなにかしらの心に負債をおったことをきっかけにした不登校で、こころも体も健全とはいえない状態に陥っている場合には、デ・スクーリングの期間は罪悪感によって抱えてしまった心の傷を癒すために、また、あらたなまなびの環境をみずから選択するためにも休養・休息といった長い時間を要します。
 この時期は、学校に行きたいとは思えない自分と学校に行くべきなのにと考える自分と葛藤しています。親も同様です。見た目は「なにもしていない」ように見えるでしょう。
 言い換えると「外部に対しての反応機能を最小限に抑えて、身体活動のほとんどを自分の内側を対峙する」ことに、文字通り、寝ても覚めても時間を費やしています。外部に対して無力になるので、《要塞・秘密基地》のような強固に自分を守ることができる場所にひそむ様は、たくましい生存本能だと思えます。

 ですが、家のなかであれ、フリースクールであれ、保健室であれ、自分の身を守ることができる場所では無いとわかれば、そのもっとも重要な活動に集中することはできません。対峙する時間を確保できないうちは、その環境が整うまで、とりかかることができないのですから、その他のなにかしらの行動も起こすことはできないのは当然のことです。
 なにか別のことで気を紛らわせたり、できない理由をつくるために生活リズムを変える結果になるかもしれません。身体症状は、心の動きと完全に一致します。もし一致していないのなら、それは心配すべきことのひとつです。その症状や感情の起伏は、時間をずらして表に出ることもあります。安心できると確認する行為、充分な環境が確保できたと認識したためにやっと身体症状として発現したりもします。このときは《待つ》しかないのです。  
 その時期は、2週間やそこらでどうにかなるものでは決してありません。いつしか「昔のこの子にもどったような・・・?」と感じるまでには、心に負った傷を受けた期間の2倍の時間は必要だと心することだといわれています。実際に人間の修復期間はそれくらいかかるものです。

 デスクーリングのプロセスをふまず、学校教育が唯一の教育であるという考えのままホームスクールに踏み込んだ場合は、「どのような方法をとっても、最終的には学校教育の目指すゴールへ至ることができる」ということを証明をしようと試みようとする傾向があります。親もこどももです。

 学校の代わりとなる教育の方法論(代替教育)を選ぶということをしがちなのです。そのため学校教育の指導内容である「読み・書き・計算」の教育課程の学習内容を身につけることを目標やゴールに設定にしたり、合否判定するためのテストにも合格できる力はあるのだと示すようにこどもをたきつけます。こどももそうして証明しなければならないと考えます。
 なぜなら、それがしあわせになるための方法だと考えているからです。しあわせとは学力を身につけることであるという前提を持っていて、そうすれば学校(あるいは社会や世間)が保証してくれるという幻想に手をひかれて歩くことに恐れを抱かないのです。目隠しされて、手をひかれていながら、絶対にしあわせにたどり着くと盲信しているのと違いありません。
 学校に行かなくても、学校に行くのと同じことができるのだという証明に親も子もとびついてしまう。あるいは、「その証明をするように」という学校の要求に応えようとしてしまうのです。
 それは果たして、こどもにとって最善なことでしょうか。

 
 ‟ホームスクールとは家庭を基盤にして、まなびの環境を整えること。”
 これがホームスクールの原則です。
 「こどものしあわせ」は、こどもが決めるものとしてあたりまえにあるのだということを忘れたくないと思います。
  こどもの人生は、こども自身のものです。
  親の人生もまた、親のものであるのです。
  あなたの人生は、あなたのものです。
  人の人生は、その人がつくりあげていくものであり、つくりあげてきたものなのです。だれの、どんな生き様も尊重されるのが多様性を受け容れる熟成した社会であり、その実現を願ってやみません。



ホームスクーリング・センター kokage ・ 2017/03/10コラム掲載*
このnoteは、有料マガジン『ホームスクールをはじめよう~日本のホームスクール~』の第一稿「日本のホームスクール」を編集しています。マガジンもしくは各noteをご購入することで、お気持ちをお届けしてくださるとうれしいですし、とても励みになります。お待ちしています。


ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。