花をどうぞ。あなたにも
こどもが学校に行かないことで虐待を疑われているお宅の声を、偶然、垣間見る機会がありました。「疑われているのか?」という疑心暗鬼と、「疑いは無いのか?」という怖れと不安、ドアを挟んだ両方にある不信。それが氷解するために、なにか持つべきものがあるのではないでしょうか。「理解してほしい」だけでは伝わらないことがあります。全受容を求めるには、無理な立場の人が、それを求められています。
【文科省通知の衝撃ー緊急安全確認】
ニュース記事で一般にも知られた緊急安全点検の詳細を見ていきます。
ニュースに出ましたので、就学年齢のお子さんを持つ家庭以外でも知られていることでしょうか。就学年齢のお子さんを持つ家庭にとって、そして実際に長期欠席しているお子さんを持つ家庭にとって、そして、生徒に関わる先生たちにとって、これはどのような意味を持つものだったでしょうか。
【文科省の視点ー実効性のある虐待再発防止策】
長期欠席とは、文科省調査においては欠席日数が年間連続あるいは断続的に30日を超える場合を指します。この通知のなかでは「2月14日時点で、2月1日以降一度も登校していない児童生徒」と対象が限定がされています。報道ではこの2週間をさして長期欠席児童生徒と表現したようで、通常、文科省が調査で使用している「長期欠席児童生徒」の意味を成しているかのような印象を与える報道記事になっていました。不登校児童生徒は日数に関わらず、「学校に行きたくない」という本人の意思があることを理由とした欠席です。文科省調査においては長期欠席の理由は、不登校のほかに病気療養、経済的理由その他となっています。
ちなみに出席扱いというものがあります。出席とは厳密には異なり、表記方法は出席日数の横に括弧書きで記録されます。これにより長期欠席にはカウントされません。
※はこちらで訳しました。太字は、文科省の視点となる注目したい部分です。
文科省の今回の調査目的は虐待の再発防止です。より実効的にするために、虐待をあぶりだす目印に就学生徒の2週間の長期欠席を指したと言っているのです。
【学校の視点ー不登校児童生徒との関わり】
文科省の虐待防止対策を目的とする通知はこれが初めてではありませんでした。
学校の教職員は、職務上、児童虐待を発見しやすい立場にあることから、学校生活のみならず、幼児児童生徒の日常生活面について十分な観察、注意を払いながら教育活動をする中で、児童虐待の早期発見・対応に努める必要があることが共有されています。また、虐待の疑いが発見された場合の対応方法も共有され、保護者に協力を仰げない場合や連携する先も具体的に指示されています。
この通知は平成16年(2004年)、今から15年前になります。当時の長期間学校を休んでいる児童生徒数の状況等は下記の通りです。
学校職員の立場上で感知できる虐待を早期発見することを期待されていますから、それが第一に目的ではないにせよ、生徒との日常的な関わりのなかで生徒を取り巻く周囲の状況の把握に努めることは業務のひとつとして認識されていたと思います。しかしあくまでそれは立場上、有効な働きができるから活用されるものであって、虐待発見を第一の目的に据えて関わろうとする姿勢でよいとは思えません。
生徒との信頼関係は無論のこと、家庭との信頼関係を築くことは大変重要な課題であり、そうすることで学校環境が望ましいものにつながり、それが生徒自身の日常にも望ましい効果が得られるのではないでしょうか。その信頼を壊すようなことがあってはいけないと考えるのは当然です。
文科省の通知に対し、心ある学校の対応は、家庭との信頼関係を壊さないことが最優先されることだったことでしょう。長期欠席というとすなわち不登校児童生徒のことを指すことになります。学校を休み始めたタイミングかもしれないし、もう少しというタイミングかもしれないし、学校と家庭の間に不信が芽生えつつあるタイミングかもしれないし、信頼を回復する途中かもしれないし、揺らがない信頼でもって見守っているタイミングにあるかもしれないのです。それらを各生徒ごとに、まさに手探りでじっくりと取り組んできた日々のなか、突然の緊急安全確認の調査と報告そしてそれにもとづいた各機関との連携は、学校の先生方にとってはどのような印象を受けたのでしょうか。文科省への想いは、生徒への想いは。想像でしかありませんが、腑に落ちない点があるのではないでしょうか。
全方向に学校のイメージが負に傾く音がしたような気がしました。世間には「日頃からの対策の責任」、文科省へは「立場上、期待される成果」、家庭へは「信頼関係」が、ガタガタと大きな音を立てた気が。
【家庭からの視点ー不信と不安】
こどもが学校に行かない。
その事実だけでも、家庭では大きな不安に襲われています。将来の不安はもちろんのこと、世間からの目、身近な家族や親せきからの目は存外に厳しく、大きなショックから周囲すべてから否定されているような気にさえなるのも不思議ではありません。本来ならこの時点でカウンセリングを必要としているのは保護者が第一かもしれません。まさに予想外の事態に混乱しているわけですから、感情がたかぶります。感情をコントロールする手伝いが必要になっているはずです。しかし、日本ではこのようなときにカウンセリングをすみやかに受けられる仕組みがありません。残念ながら、行政指導に直接つながる支援機関では学校復帰が原則にあります。文科省が、不登校は誰にでも起こり得ることとして、問題行動と扱ってはいけないことや、多様なまなびが認められてもよく、学校復帰を第一としない旨の通知を出していますが、果たしてそのほかの省庁管轄にまたがる分野でも実践的に共有されているのかは疑問です。家庭訪問などで支援する公的な支援員の意識、学習支援員の意識、委託されて活動する家庭支援に携わる市民の意識はどうでしょうか。文科省は教育機関を学校教育に独占しています。公教育としては学校教育しかなく、学校以外の多様なまなびの機会に直接つながる公的なルートはまだありません。
学校に行かない自由に対しての理解は浸透しておらず、不登校の偏見と差別はまだまだ払拭されていないのです。多くの家庭では、学校に行かないことへの罪悪感を抱えたままです。この罪悪感を取り除く、公的なプログラムもありません。
また虐待の認識も世間にはイメージでしかなく、その実態や背景をきちんと知られていないように思います。ぜひ偏ったイメージでとらえるべき観点を見失わないよう以下の投稿記事に目を通してほしいと願います。
冒頭で、虐待を疑われたある家庭の例を偶然にも内側から見ました。ひとことでいえば被害妄想と言われる事態なのかもしれません。学校や地域の人すべてが自分を疑っていると思い込んでしまい、訪問への警戒心を高めたり、手紙の内容に疑いの目を向けたりするようになることです。被害妄想と言うと本人の心の問題だと思われてしまうのではないでしょうか。心の病は本人の弱さや問題でしょうか。そうとは思えません。不安と混乱のなか、安心することもできず、誰を信頼してよいのかもわからないまま極限まで追い詰められた結果、すべてに疑われ否定されているような幻想を抱いてしまうのです。大なり小なり、不安を抱えた人ならば、そういう状況におちいった経験があるのではないでしょうか。「考えすぎ」「取り越し苦労」といったようなことが。しかし、本人にとっては現実なのです。
支援の立場にいる人は、どうにかしてその状況から一刻も早く救い出そうと関わりを持とうとしますが、性急な姿勢が本人の気持ちを置いてけぼりにすることで、不安をますます高めてしまうこともあるのです。
実際、猶予ならない状況の中で、時間に差し迫った事例もあるのだと思います。
『健康で文化的な最低限度の生活 7』は、こどもの貧困を扱った内容が掲載されています。是非、一度手に取ってみてほしいです。イメージとして貧困と不登校と虐待を安易につなげるのではなく、一例としてこういう事例は身近に本当にあるのかもしれないと受け取ってほしい。偏ったイメージは想像力を乏しくします。多角的に眺めてみること、多面的にとらえると千差万別のケースが考えられることに想像力を働かせてみてほしいのです。「もしかしたら…」のその先のパターンを幾数百にも増やすことで、寄り添える人は増えると思うのです。
こちら↑はネタバレのようなので、そのおつもりで。
前項の学校の視点にも書いたように、家庭のなかでもこどもの状況により、その心に寄り添って、親自身が学校との距離をどのように測ればよいのかを慎重に見守っています。学校とこどもの間に立って、できれば先生とこどもの信頼関係を回復したい気持ちで臨んでいます。ただしそれは親と学校の間に信頼関係が築かれている場合であると考えられます。まだそれが築かれていないとしたら、親御さんと学校間でその回復に取り組むことが望まれます。いずれも人の心の動きですから、決まりや手順だけでどうにかなるものではありません。縁あり、時機ありです。行きつ戻りつでもあります。ましてや罰則で抑制できるものでもないことでしょう。さまざまな要因がからみあっているのが人の営みなのですから。
【花をどうぞ、あなたにも】
目印をつけられるとは、いったいどういう意味なのでしょうか。集中的に
標的にされるようなものです。そのことは目印を付けられる側にも知られているのです。疑いは互いに疑いを生み、対立を生み、孤立を生むような気がします。追い詰められたトンネルのなかのような心地がします。
誰にでも起こり得ること。虐待もまたそうだと言えます。どんなに立派な人であっても、知らないことはあるし、どんなに普段から善意を意識している人であっても魔が差すことはあり、どんなに注意を払っても事故に巻き込まれることだってあります。必ずしも悪意が動機になるとは限らないと思っています。必ずそうなる要因はありません。むしろ、結果をさかのぼってみると、そういう要因があったと分かっただけだと思うのです。果たしてそこにどれだけの意義があるでしょうか。
追い詰められた人をつくるのであれば、それが要因です。
そんなことよりも、もっと血の通った人間の姿を多くの人が知ることで、身近な人に寄り添える人が増えるのだと思うのです。疑われない準備に鎧を固めるよりも、疑いを晴らす悪魔の証明に心が支配されるよりも、いつでも見守っているよという温かい心を誰もが持てることのほうが、ずっと誰にとっても安心ですし、そんな大人にこどもたちが成長するように守り伝えていくことのほうこそ、大切なことなのではないでしょうか。
悪臭を放つ毒矢で打ち抜かれることにおびえるよりも、すべての人に贈られる花束のひとつを受け取ってほしい。
【こどもに優しい街づくり】
ホームスクーリング・センターkokageは、
『街ぜんぶ!まなび場!』が、ホームスクールの本質だと考えます。
こどもがどこかに囲われず、街がまなび場そのものなのです。
こどもの自由意思で、街のあちらこちらに訪れる機会を保障することができたのなら、それが虐待をふせぐ一番の近道ではないでしょうか。長くかかったとしても確実な道のりではないでしょうか。
危険な場所からこどもを守るために追い出すのではなく、こどもたちを護り育てる場所にするという意識こそが、その近道ではないでしょうか。
理想すぎるでしょうか。でも、それは真実です。
どちらを選ぶでしょうか。
参考note:『ホームスクール制度と社会的擁護』
続編『緊急安全点検、その後の動向の記録~安心して育ってほしい~』
ここから先は
デスクーリング~学校に行かないことへの罪悪感を拭って~
学校教育を選ぶ。オルタナティブ教育を選ぶ。その前に、学校教育信仰から脱し、新たに「教育とはなにか」「学びとはなにか」を問い直す。デ・スクー…
ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。