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氣をそらされたくない

マガジン『ホームスクール、まなびのエッセンス』 
7ノート目です。

Essence:あじわう

 落ち着きのない男の子がいました。小学校高学年です。一時預かりの打ち合わせにと困った時の対処法をお母さまからお知らせいただいていた時のこと。

「癇癪をよく起こします。
 お気に入りのおもちゃがあるので、それで気をそらしてください。」

 打ち合わせの最中もまさしくそのように対応されていた姿がありました。一時しのぎにどうしてもそうしなければならない状況はたくさんあります。優先順位の一番に、そのこどもの意思と行動を持ってくることができない場合です。たとえば公共の場では、できる限り多くの人が気持ちよく心地よく過ごしたいと考えます。誰もがそこで心地よく過ごしてよいわけですから、誰にとっても心地よい過ごし方を、誰もが互いに選ぶことができると安心です。そのためには「誰もが選ぶことができる」選択肢がそこに用意されていることもとても大切なことです。

譲り合う
・順番に
・交互に

やめる
・延期する
・別のことをする

 こういったことが頭に浮かびます。「自分だけが権利を得る」選択は自分勝手などと判断されることがありますが、決して「自己主張が強すぎる」と言われて、その意思が押し込まれることがあってはいけないと思うのです。もし押し込まれるようなことがあれば、その先に議論や対話、話し合い、合意形成といった民主主義的な行動を学ぶ機会を失うからです。

 権利を持っていると知ることは、同時に、相手も同じように権利を持っていることに気づくために必要な経験です。一見、相反するような互いの権利の主張をどのように調整していけば、どちらも納得できるのか。もしこれをそれぞれ誰かを味方につけて反目しあうようであれば、対立でしかありません。しかし互いに意見を交換し、互いの落としどころを認識していくことで、どちらも得をするという着地点が見えることもあるのです。損して徳取れなんていう言葉もあります。失ったものを失ったままにせず、めぐりめぐって自分に還ってくることを情けは人の為ならずといいます。

 自己主張とはなんでしょうか。純粋に、自分が何をしたいのか、今どうしたいのか、どう思っているのか。それら自分の心を自分自身で知っていなければできないことです


 とても感情の豊かな子がいます。
 泣いていると、大人はなんとか泣き止んでほしくてたまりません。激しく怒っている様子を見ると、大人はなんとかして怒りを鎮めてほしくてたまりません。憤っていると、大人はなんとかしてその憤りを忘れて気持ちを落ち着かせてほしくてたまりません。
 こどもの豊かな感情が、大人の都合で消されようとしています。なぜなら、「してほしくない」大人たちはすべからく自分がそのようになったら、自分でどうしたらいいのかわからないのです。それは、これまで大人がどうにかしてくれてきたからです。あやされ、なだめられ、たしなめられて、こどもである自分の言動を他人の手によって抑制されてきてしまったのです。そして、あやし、なだめ、たしなめることが大人の行動であるとも教え込まれてきたのでした。確かにそれが大人の行動のひとつであることは間違ってはいないのでしょう。けれども、子どもが自分の感情や行動の抑制の舵取りを、すべて大人が奪ってはいけないものなのです。


 こどもは泣きます。泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。そして、おさまったら泣き止みます。どうして泣き止んだのか、その理由を言語化するのはまだ難しいかもしれません。「気が済んだ」なんてこともありますよね。

必要があってそうしている

 いつもこれは忘れてはいけないことだと意識していました。
 ひとりの人間が成長していく過程にあって、剪定されずに、ありのまま伸びていく自由もよいのではと思うのです。剪定された立派な樹であることもひとつの生き方であろうと思います。それは、その生き方が適している環境と気質ならば、それはそれで素晴らしいことではないかと思っています。
 こと幼いうちには、その気質を伸ばしていくためにも、その子らしさを知っていくためにも、感情を味わいつくすことはまず第一歩のはずです。次の一歩では、その感情が変化していくさまを観察し、またそれを味わい、さらにどこに落ち着いていくのかを見届けることができるでしょう。充分に安全な場所で、充分に安心できる空間で、そして味わい尽くせる充分な時間があることが、人間として成長するまなびの機会を得る環境だと考えます。

 ひとりの時間、ひとりでいる時間も必要だということです。誰にも、それを批判されることなく、判断されることなく、ただ受け止められることが安心であるということです。誰にも攻撃されず、誰にも否定されないことが安全であるということです。放っておかれているのではなく、見守られているのです。
 そんな環境を整えることを最優先とすると、集団のなかではなかなか難しいことがあります。たまには、そんな集団から距離を置く日を設けてもよいですし、設ける必要があるときだってあると思います。


 充分に自分の感情を味わい、それが落ち着いていくまでをじっくりと知っていると、不安というものが縁遠くなっていきます。なにがあっても大丈夫だと感覚的に知っているからでしょう。不安という感情すら、味わい、眺め、どこに戻っていこうとしているのかをみつめることを知るなら、ただそれが収束していくのを眺めていればいいだけなのですから、心配ということが無くなります。心配することは、時には優しさや親切につながりますが、多くは、信頼していない証、相手のことをよく知らない証、そして相手の同情を誘い、思い通りに動かす道具にもなります。
 そうして自分の感情の抑制コントロールする、つまり自分の感情を自分のものとして扱えるようになると、落ち着きが増します。どのような方法が正しいということはないでしょうが、自分なりの方法を自分で探し当てられるということは自信のひとつです。自分を信じることができる安心のひとつです。それは自分を支えてくれます。その支えがあるなら、譲り合うこともやめるという選択も提供することができます。自分が今いる場所を崩されるような感覚を持つことがないからでしょう。

 揺るがない盤石は、基礎が築かれてこそ完成するものではないでしょうか。盤石になれとその型枠にはめられたとしても、その基盤がぜい弱であったのなら、あっけなく崩れてしまうかもしれません。ゆるぎない安定は、結果としてそうなったものでもありますし、なるべくしてなったものともいえます。
 もしも、その基盤が形成されていなかったとしても、いつでもやり直せることです。そしてこれまで生きてきたということは、小さいながらもどこかにゆるぎない基礎があるということです。その基礎をみつけ、その基礎からまた丁寧育んでいこうとするならば、きっと短い時間でまたたくまに成長を遂げてくれるだろうと想えます。
 今この瞬間から始めることができるのではないでしょうか。
 ぜひ、味わい尽くしてください。自分という人間まるごと。あなたは、あなたしかいませんからね。


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