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遠隔授業とオンライン授業の定義は(2020年10月萩生田文科相の記者会見に思う)

その後 関連マガジン



 萩生田文科相記者会見の記事が次々と目に飛び込んできた。

 facebookでつぶやいていたことを時間軸で書き出してみることにするnote。今、どうなってるのか。どう受け止めるのだろう。

2020年10月9日 オンライン授業は教員同席が必要

 気になる学校教育のオンライン授業の動向ですね。

 「オンラインコースが誕生したら、どんな学校環境になるかな?」を想像してみる。

【観点1】学校教育の履修とみなすためには

 「教員の同席」は、文科省が与える学習指導要領に基づいた内容の学習を身につけさせること、さらにそれを身につけていると評価できるようにすることを考えれば、学校教育法のなかでオンラインコースを実現するには想定してあたりまえのイメージだなというのが最初の感想。
 教室で授業をする先生が、オンライン授業とみなされる動画視聴をしている児童生徒の隣に座っている様子をイメージしてしまうと、なんとも「ありえない光景」に思われるかもしれないが、「教員資格を持つ有資格者の同席」と聴くとどうだろう。その意味が理解できるのではないだろうか。(意味がわかると怖い話でもある。いかに管理監視的になり得るか、という点だから。)
 学校生活をそのままオンライン授業生活に移行するようなイメージだからだ。枠を変えずに、なんとか枠の範囲内で適用できるように、と考えるならそうなるだろうよ、ということだ。

 

通学コース・オンラインコース

⑴ひとつの学級にコースが設けられる場合
先生の役割
・生徒の個別学習計画の統括
・学習計画とサポート(指導)
①教室で授業を受ける生徒たちの学習サポート
②オンラインで授業を受ける生徒の学習サポート

生徒の環境
・授業を受ける方法が異なる生徒の混在
・授業サポートのケア内容が異なる生徒の混在

⑵コース別が学級別となる場合
先生の役割
・教室で授業を受ける生徒学級
・オンラインで授業を受ける生徒学級
生徒の環境
・同環境にあるクラスメート
・コースが異なる同窓生の存在

 対面授業に替わる双方向型オンライン授業の実現にしろ、動画視聴による学習にしろ、教室での授業運営とは異なる内容で組み立てられたものになるだろうから、今現在のクラス担任が両方を担うことはかなりの負担ではないかと想像する。
 つまりそれだけ「教員数の確保」が課題となる。


【観点2】教員養成課程の見直しと学びの保障

教員の確保

 通学コースとオンラインコースで、単純に「倍」ではおさまらない。 
 GIGAスクール構想では、現在の教員方々のICT活用化に向けての支援員の数しか頭にはいっていないように見受けられるけど、それぞれの授業計画が異なることから、それにかかる時間も増えるわけで、やはり手分けする必要は生じるんじゃないかな。教員の数はこれからますます必要ということに。


教員の質

「教員の質が問われる」などとよく言われる。かつてはそれはどんな意味合いを含んでいただろう。
 ・教育への熱意
 ・生徒指導への情熱
 ・研究熱心
 ・向上心
 ・組織の一員として一丸となって取り組む覚悟
等々、いわば「良い先生とは」と評価される個人の資質が問われた。
 「良い先生」と感じる観点は、受け手の個人個人によって異なる。
 多様性があったともいえる。あだ名をつけられた先生たち、生徒たちはいろんな表現で親しみを覚えていた風景がそこにあった。
 しかし性善説が根底にあるのか、「聖職」という言葉がそうさせたのか、「教員」というだけで本来許されるはずの無いものが許されていたことも確か。長い歴史の中で埋もれていたものが、近年、外に”事件”として明らかになったものも多い。
 ゆえに「教員の質」を問われながらも、その実現は叶うことが無い。

 これからは効果のある指導内容を忠実に再現できることが「教員の質」とされ、問われる未来に向かっている気がしてならない。
 文科相の発言からも、その期待が見え隠れしているように思える。

 オンライン授業の内容構築は、既存のネット学習成果のデータが蓄積され分析されている最中だ。その効果のある指導方法を見つけ出し、結果ありきの信用ある「なにか」を抽出しようとしている。データをもとに、期待する結果を出すために最も効率的で効果の高い方法を探っている。
 その導き出された指導方法を、崩すことなく忠実に再現することができる人材が求められるし、生徒に応じて、もれなく指導し、身につけるべきことを身につけさせるための方法の数々の引き出しを自由自在に引き出して活用できるような人材だ。

AI先生の誕生か?

 そんなことを考えていたら、こんな発言があったことを見つけた。記者会見の一部を記者の語彙で表現されている記事は、発言の真意が汲み取りにくい。全貌を読まなければと検索したところだった。

(萩生田大臣)
「AIを適切に利用できる人材の育成や対面での教育の重要性等について発言しました。」

 詳しいところは不明確だが、「AIの活用や開発についての関心は高く、検討研究している最中なのだな」ということだけはよくわかった。

 〔 AI ✖ 対面での教育の重要性 〕

 ここから導き出される解は、なにか? と想像が始まりそうになる。
 解の一つには確かに生徒一人ひとりに学習の定着をはかるための学習の進め方を図る個別最適化が在ることだろう。

 この10月6日記者会見の記録の内容については、次の記事のあとに再び取り上げる。

2020年10月10日 文科相「オンライン授業だけでは乱暴」 河野氏らにクギ

 「オンライン授業だけで学校へ行ったことにするような乱暴な代替策は現段階で考えて欲しくない」

 どうやらこの発言がなにかと世間に反応を引き起こしているようだ。


【観点1】学校教育の履修とみなすためには

 上記の発言にもう少し付け加えられた発言が取り上げられている。

教員の立ち会いについて「子どもに適切に指導するには受信側に教師がいることが必要。教師が同席しないオンライン指導をもって対面授業に代替できることは現段階で考えていない」

 通信制高校を知っている人なら分かるだろう。そして、実際に通信制高校に我が子が通った経験のある家庭ならなおさら想像できるだろう。

・生徒の学習計画(時間割作成のようなもの)を補佐する
・学習の進捗を把握し、適切に助言・指導する
・学習指導(授業担当)

さらに割と重要な役割として、学校側も認識している存在がある。

・生徒がパソコンを開き、学習を始めるまでのケア・サポートをする

 通信制高校に通う生徒の場合、この役割を担うのは主に家族、特に母親であることが多い。そのため学校側と親・保護者の密な連携は欠かせない。
 通信学習は、学習者の自律と自制心が重要になる。自ら「学習を始める」と意図しなければ、ただいたずらに時間が過ぎていく。特に学習者自身による独習計画と展望が求められる通信制高校ならなおさらだ。
 ホームスクール・グループでは、通信学習を受ける学習者のサポートを引き受ける役割も期待される。共働きなど、こどもの学習時間に親が在宅していないあるいはその様子をリアルタイムに把握できないなにかしらの状況にある時、ホームスクール・グループのなかで互いに協力しあうのだ。それはリアルなグループに期待されるものでもあるが、今後はオンラインでもネット交流が親しまれていくなか応用できる可能性はある。

 また、学習のつまづきに気づいたり、「生徒が先生に質問する」までを学習者が自覚し、次の行動に出るまでをサポートすることが特に、学習する環境として重要なことのひとつでもある。それが家庭の保護者であったり、サポーター(支援者)であったりする。

 不登校支援を例にあげると、各自治体では公共の教育支援として呼び名はさまざまだが家庭訪問支援(アウトリーチ)がある。在宅学習をする児童生徒宅に訪問し、通信学習なり、プリント学習なりの学習活動の支援を行う。
 「勉強を教える」以上に、学習に向かうためのサポートがいかに重要であることがわかる。

 サポート役を学校教育法の範囲内で考えると、教員か支援員、教員免許を持っている支援員などが想定される。家庭学習では学校教育を履修したとみなす規定がないので、親・保護者の監督下では、それらの学習を「出席」や「評定」につなげることは難しいと思われる。
 もしこれが現時点で可能であると判断されるのであれば、不登校のこどもがいる家庭における在宅学習はすべて「出席扱い」ではなく、「出席日数」にカウントされているし、「斜線の評定」になって指導要録に記述式で記載されるのではなく、「評定」になっているだろう。それはご存知のように実現されていない。

【観点2】教員養成課程の見直しと学びの保障

 家庭での学習者の学習サポート役に、現行制度では親・保護者が担うことができないのであれば、教員かそれに準ずる公職員である支援員、あるいは教育機会確保法を適用した民間教育施設(不登校支援のフリースクール)や自治体から公的に委託された民間教育機関ということになるだろう。
 しかし、不登校支援の目的とは異なる「在宅学習内容を、学校教育を履修したものとみなすために」は、指導者の指導内容のスキルアップ、支援者の教職に準じる知識の獲得と資格取得等の必要性を問われる方向に行きかねない。

 不登校支援の主足る目的は、学校の代替が期待されることではない。

 学校に登校することによって引き起こされる心の傷の回復がある。その先に生徒たちの学習意欲があり、社会への興味関心の高まりがあり、学習者になったときに、それまでの「学校に登校していない期間」が不利益にならない支援体制がもっとも求められているのだ。

 単純に、「学校に行かなくてもいい。学校の代わりになるところへ行けば」では決してないことは、きちんと理解されてほしい。


 再度、取り上げるが、下記の発言には「遠隔授業」と「オンライン授業」の混同が見られる。世間一般的にも、このふたつを明確に区別してつぶやいている様子は見られない。

教員の立ち会いについて「子どもに適切に指導するには受信側に教師がいることが必要。教師が同席しないオンライン指導をもって対面授業に代替できることは現段階で考えていない」


遠隔授業とは

 離島の現状を見聞きした人のなかには「遠隔授業」への期待を知っている人もいるだろう。
 離島の小中学校では、義務教育期間にも関わらず、特に美術・技術・家庭・音楽等々の専科の教員の確保が難しく、教頭先生が代理を務める(校長先生は授業を行ってはいけないらしい。学校運営の管理職だからだ。)ことが多いと聞く。
 そこで期待されるのが「遠隔授業」。

 他校の授業にICTを活用することで、一緒に参加することができる授業形態だ。他にも長期欠席の理由にもなっている病気療養のために登校することが困難な児童生徒の学習環境にも活用できると期待されて久しい。多くはアナログな手紙やプリントの郵送が活用されていたものが、ICTを活用することで、もっとリアルタイムにそして体感的に授業に参加することができる。
 住んでいる土地環境の違いから、文化交流までも内包されるだろう。また逆に全国の地方格差を縮めるという観点でも活用が望まれてきた。
(※kokageでもこれに関して平成30年『『小・中学校等における病気療養児に対する同時双方向型授業配信を行った場合の指導要録上の出欠の取扱い等について(通知)』を紹介しているが、長年の期待と研究に応えた結果が実現される一歩となる内容だろう。)

 これら長年進められた「遠隔授業」と「オンライン授業」が混同されていることにいささか困惑している。一般的に言われている「オンライン授業」のイメージはかなり違っているからだ。


オンライン授業のイメージ

 オンライン授業と呼べる学習スタイルにはいくつかのタイプがある。

授業配信(リアルタイムもしくはオンデマンド型)
反転授業(学習者が動画教材やオンライン教材を用いて講義内容を自宅で予習し、その予習を前提に教室での演習に参加する)
双方向型授業(学習者と授業講師がリアルタイムにやりとりしながら進行する)


 双方向型授業は、生涯学習(社会教育)の機会に、社会人向けの学び直しに活用されるスクー(Schoo)などがある。講師やホワイトボードが写しだされるだけでなく、必要に応じて資料が画面に映し出される。もっとも特徴的なのが画面横で繰り広げられるチャットだ。書き込みを講師とアンカー役がひろいながら講義が進められる。
 この方法では、「その瞬間、その時に、疑問を思い浮かべ、即座に質問できること」がメリットでもあり、デメリットでもある。講義が終わると、講義内容について考えを深めた時に生じた疑問をどこに問えばよいのかが不明だからだ。担当教官であったり、在籍生徒であったりするならば、後からの質問と対応は、職員室に向かうのと同様に可能ではあるが、単体の授業配信では難しい。
 学習者個人の資質によって、学習の深めかたは異なっていることに配慮が必要となる。言うならば、授業中に手を挙げて発言できるタイプと、一回持ち帰って反復して理解が深まるタイプがいる。ちなみに私は圧倒的に後者なのでテキストによる独習が非常に合っていると自覚している。こういうタイプにとってディスカッションは、すでに自分のなかで持っている思想のアウトプットであり、さらにさまざまな意見を吸収する機会である。ディスカッションで初めてそのテーマを考え、思考し、自分なりの答えを出し・・・とやっていては、その「場」には、まるでついていけないものなのだ。

 反転授業は、授業ほどにかかる時間を短縮するメリットがある。教科書内容の説明をあらかじめ効率的に編集された動画や図解によって、視覚に訴えることができ、頭の中で整理しやすい。前もって考える機会があるから、疑問が浮き彫りになり、質問を用意しておくことができる。
 そのうえで言語的な授業展開で、質問が飛び交い、活発になるし、参加する生徒全員が互いの多様な疑問や質問を共有し、自分以外の人間の多角的な視野に触れることができる。
 一斉授業は、先生対生徒多数のように見えるが、生徒視線からは一対一である意識が多くを占める。他の生徒の思考を共有するには班活動等のなにかしらのアクティブな活動が必須となる。

 授業配信とは。昨今、見聞きする「オンライン授業」のイメージはこれであることが多いように見える。リアルタイムに在籍するクラスの授業を配信し、それを視聴することで授業に参加できるイメージを持つ。しかしながら、本当に「参加する」には、周囲のそれ相当の配慮が迫られる。

・授業に映りこむ教師と生徒のプライバシーの保護
・授業を生徒だけでなく、家庭の親・保護者も閲覧することによって起こる教員の職務への侵害と越権からの保護
・「隣の席に座っている」「学校生活を共有している」という画面の向こう側にいる学習者が学校生活に参加するリアリティの実現
(※学校教育の履修とみなす必要要件とまなびの保障は前述の通り)


 ここで萩生田大臣記者会見テキスト版を再び取り上げる。

萩生田光一文部科学大臣記者会見録(令和2年10月6日)

 遠隔授業とオンライン授業についての発言部分を一部抜粋する。

(記者)
「義務教育段階で遠隔授業を授業日数に含めていったらどうか」

(萩生田大臣)
「遠隔授業そのものを否定するものではないのですけれど、やっぱり教育の発達段階によって、その中身っていうのは変えていくべきで、一括して、遠隔授業もですね、全て学校の授業と同じようにカウントするっていうのは少し乱暴なんじゃないかということの具体的な例を示させていただきました。
 で、あの、平井大臣からはですね、例えば、長期入院中の子供たちなどは、今、すでに学校に来なくても遠隔での授業を認めているっていう具体的な説明や、あるいは、不登校の子供たちがですね、学校へ来るきっかけとして、オンラインを活用して、教室の仲間の顔や先生たちの直接の授業を受けながらいつの日か学校にきちんと来てもらえるような、段階的な支援のための遠隔の授業の在り方などは非常に有効だけれども、じゃあ、学校に来なくても、全ての授業がオンラインで代替できる、それを全て授業日数と同じようにカウントするっていうのは、今の段階で、私、考えてないってことをはっきり申し上げました。
 
 しかし、小学生や中学生の義務教育は、対面で、あるいは集団で様々な活動をすることが教育なわけでありまして、授業を映像で見たか見ないかということだけでは、学校という意味は果たせないんじゃないかっていうことを申し上げましたら、そのことは、よく理解をしていただいたと思っております。
 したがって、あの、今後、まだ1人1台の普及が終わってない段階で、あらかじめ規制改革を先にするというのは、私はちょっと、順序が違うということをあえて申し上げて、まずは、今年度末までに、小中学生1人1台端末の整備が終わるので、これを活用したら、今まで想定してなかったこういう合理的な授業の在り方があるじゃないかと。
 これについては、教室に集まらなくても授業としてカウントしたらどうかってことは、今後、色々出てくると思うので、その都度、また相談をさせてもらいたいっていうことを申し上げて、その日の段階ではご理解いただいたと思っています。」

 やはりこの発言を見ても、「遠隔授業」と「オンライン授業」の概念の混在があるように見える。そこで『新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会 (第10回) 議事録』が公開されていたので、読み進めていると、ちょうど「遠隔授業」と「オンライン授業」の定義を明確にしてはどうかと提案されていることがわかった。

 この議事録の内容については、関心の高いものを次のnoteで取り上げたい。


ホームスクーリングとオンライン授業

 「遠隔授業」の言葉が持つ学校教育外学校教育の機会提供と、「オンライン授業」の言葉が持つそれは似ていてるようで違っていることを述べてきた。

 School at home(スクールアットホーム)の在宅学習と、ホームスクーリングのLearning at home(ラーニング・アットホーム)もまた似ているようで違っている。さらに不登校における学習機会もまた少し違う側面がある。

 それらを「同一視」することのほうが乱暴なことだ。

 再確認しておきたいが、ホームスクール(ホームスクーリング・アンスクーリング)は用語として明記された法律は日本には存在していない。しかし憲法そして教育基本法において普通教育として受け容れられている。

 文科省ホームページ資料によると『フリースクール、ホームスクーリングと教育義務・就学義務との関係』では、「 義務教育を学校以外で行うことは認められていない。」と記述されてきた。

(ここから、2021/4/15加筆)

『義務教育に係る諸制度の在り方について(初等中等教育分科会の審議のまとめ)』平成17年


参考図表5「各国の義務教育制度の概要」より
を参照。

 (※)この記述には変更点がある。少なくとも変更されたのは2017年(平成28年)以降と見られる。

変更前
『フリースクール、ホームスクーリングと教育義務・就学義務との関係』
義務教育を学校以外で行うことは認められていない。

変更後
『家庭等における義務教育』
「学校教育法は就学義務を規定,義務教育を家庭で行うことを認めていない。」


 


 最近では、下記の資料がウェブ検索からあがってきており、認知が拡がっている。

資料4『諸外国の義務教育制度の概要』 を参照。

項目『義務教育制度の対象となる学校の範囲
(※私立学校は認可権者等から認可等を受けたものをいう)』

日本
・国公私立学校
ホームスクーリングは認められていない

平成24年3月13日(火曜日)開催

 これら「ホームスクーリングは認められていない」「学校教育法は就学義務を規定,義務教育を家庭で行うことを認めていない。」の文言は、資料として作成されたものであることに留意していただきたい。これらの文言を取り上げて「だからホームスクーリングは違法だ」とか「ホームスクーリングは日本では認められていない」とただちに断定することはできない。
 ご承知に通り、日本国内で”ホームスクーリング”を記載した明文はなく、いまだ公教育は学校教育に限定されており、憲法や教育基本法から読み取れる普通教育について公式に議論が交わされたことはないからだ。

(加筆ここまで。2021/4/15)


 この場合の「義務教育」とは学校教育法の範囲内でのことであり、普通教育のうちの学校教育についてのみ言及されているだけだ。現在、公教育は学校教育のみで法整備が未整備であることを再認識してほしい。ホームスクーリングの制度がないため、日本でのホームスクーリングの定義は明確ではない。諸外国の事例の一部の印象を抜き取っているだけにすぎず、非常に曖昧な表現である。
 このことは軽視されてはいけない。
 日本のホームスクーリング制度がどういうものであるかを議論無しに決定し、世間にあらかじめ「ホームスクーリングとはこういうもの」という印象を与えているからだ。


 kokageでは、やはりこの違いは明確に前提として持ちながらも、公教育である学校教育について、学校について、学習の機会について考え続ける。

 学習の機会は必要だ。
 そして学校とはなにか。学ぶ機会とはなにか。学びの保障とはなにか。
 
 学ぶことの主体は、学習者にある。
 少なくとも、その内容が、国家を支える人材育成のためだけにあるとは考えられない。学習者は国の所有物ではない。
 学習者のまなびを、公共機関として、公共の福祉として、なにをどれだけ提供し、その機会を確保する制度整備ができるのか。問われるのはその部分だと思う。

 なにを、いつ、どのように、どれだけ、まなぶのか。
 その決定は学習者自身にある。

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