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私は言葉がわからないわけではありません。判断力を持ち、自分の行動を決定する人間です。

まとめ

 個人の行動の意思決定は、個人のものです。奪われたり、失ったりしない。

 個人の尊厳は護られるものです。
 奪われたり、失ったりしたと思いこまされて、それを取り返そうと自分を責めたり、傷ついたりしなくていいのです。ずっと常に持っています。覆いで隠されているだけかもしれません。元々、離れたことなどない自分の手元にある権利です。ただ、素直に、正直に、誠実に、使っていけばいい。
 


 個人の行動の動機、背景は非常に多様です。それを想像することをやめる理由はない。

 個人を尊重する。わたしたちはそんな社会に生きています。
 そんな社会に生きようとするひとりひとりが、そんな社会を創っています。


ある日のバス車内で

 昨日の出勤時に利用したバスは酷いものでした。

 乗車時に、「マスクの着用をお願いします」。
 ここまでは業務上のアナウンスとして受け入れることができます。個人の意思ではなく、業務だからです。しかし、ここ最近では、乗車時に個人に伝えるそぶりで言われることはほとんど無くなっていました。車内の自動アナウンスにとどまっていましたし、マスクを着用しない乗客も見かけるようになりました。

 だからでしょう。私は違和感を覚えて、運転士のネームプレートを確認しました。座席から見える位置にそれはかかっています。


”マスク着用のお願い”の様子の変化

 コロナ感染拡大防止対策がおかれるようになって以来、マスク着用のバスのアナウンスの様子は、少しずつ変わってきました。もちろんそれ以前からもインフルエンザ流行時から、咳エチケットを啓発するポスター掲示などだって、もちろんありました。

 最初は、運転士さんからマイクで、乗客全体に向けたアナウンスでした。次に放送が作成され、自動で流されるようになり、次第に運転士さんがマイクを通してアナウンスすることは無くなりました。一部、私が利用する路線では3名の運転士さんが、マスクを着用していない”個人”に向けて、マスク着用をうながすことはありました。

 1名は、マスクをしていない乗客に対して、「マスクをお持ちじゃありませんか?」とか、降車時には「マスクを着けるよう言うように言われています」と誰に伝えているのかわかる状況で伝えることで、あくまで業務遂行にひどくマジメな様子でした。ただ、「業務命令を必ず遂行しなければならないのであって、私の責任ではない。マスクを着用しない客のあなたが悪いのであって、私(運転士)は悪くないし、責任も無いですよ」と強調しているかのようで大変不愉快な思いをしました。
 1名は、軽い口調でしたし、「マスクを着けることが可能であればお願いね」という印象を受けましたから、マスクを着用するつもりが忘れている人は思い出して着用しますし、そうではなく私のように着用できない人は伝えてくれたことに感謝しつつ、マスクを着用しない選択も可能でした。

 最後の1名は、誰に言っているのかわからない体で、執拗にマイクでアナウンスします。「マスク着用をお願いします」。「マスク着用をお願いします」「マスク着用をお願いします」。

 それから後には、どなたも運転士さんがマイクでアナウンスすることはしばらく無くなっていました。少なくともそのような場面に私は遭遇しませんでした。

 ところが昨日の出勤時に乗ったバスは酷いものでした。

乗客は私ひとりきりでした

 バス利用者はどんどん減っていて、私が乗車する区間に限って言えば、ここ2年近くの間でも、学生の登下校ラッシュ以外では、乗客がひとりということも珍しくありませんでした。ところがコロナ禍になってから、どういうわけか乗客が増えている印象です。車を手放す人がいるのかもしれませんし、車を出してくれる家族との接触や、タクシーの利用を控えているのかもしれません。

 その運転士さんは、乗車時に「マスク着用をお願いしています」と、私に向けて言いました。そこまでは、「めずらしいな」という印象に過ぎませんでした。しかし、座席に座ると、ふたたびマイクでアナウンスします。
 おかしいなと思いネームプレートを確かめると、あの、3人目の執拗にアナウンスする運転士さんの名前がありました。しかし、このかたも乗客が複数名のときは、そしてその客の中にマスクをしていない人がいても、アナウンスすることをやめていたのを私は確認しています。バス会社でそのように共有されているのだろうと思ったくらいです。それくらい、放送はあっても、運転士みずからアナウンスすることは無くなっていたのです。

 この日の乗客は私ひとり。途中から誰も乗ってきませんでした。

 私は、「仕方ないなぁ」と気の毒に思い、マスクを着けない客を乗せることに恐怖を感じる運転士さんもいるだろうとマスクを着けました。なにより運転に支障が生じることを避けないといけないと常々思っていましたから、運転士さんから指摘を受けた時は、自分の身の安全のためにそうすることにしました。でも、このときは、自分でそう考えてそうしようとしたのだと、自分で思い込んでいたのです。いえ、そう思うように、無自覚のまま自分を抑えたのです。


無自覚な自分に心身は訴えてきます

 すぐに息苦しくなりました。それでも(鼻を出しておけば…)と考え、その姿がどんなにみじめで不格好であるかを自覚しながら、鼻を出してしましたが、そのうち、そんなマスク着用の意味もわからない人を宣伝しているかの格好を自分がしていることに耐えられず、マスクを鼻にかける代わりに、顎の下に指をいれて隙間を入れることにしました。

 ところが、息がどんどん苦しくなってきます。

 気づけば、呼吸は浅く、回数が増えていました。

 慌てて、鼻出しスタイルに切り替えますが、恐怖心のほうが膨らんできます。15分ほどの乗車です。なんとか目的地に到着していました。バスのステップを降りるとすぐにマスクをはずしました。ほどなくして呼吸はもとに戻りましたが、胸の動悸はすぐには収まりませんでした。

 あやうく過呼吸のパニックを起こしかけたのだと、分かりました。

 なぜ、そこまでになってしまったのか。それは帰りのバスのなかで判明しました。


自分の意思で、行動を決めます

 帰りのバスでは、乗車時にも特に私個人に向けてマスク着用を促されることはありませんでした。車内では通常の放送でのマスク着用ご協力のお願いが流れるだけです。乗客は複数名います。
 私はいつもバス車内の真ん中あたりに座ります。後ろタイヤの一個前くらいです。私が座った席は、運の悪いことにタバコの臭いが漂ってきました。車内でタバコを吸うことはありませんから、日常的にタバコを吸う人から漂うタバコ臭が座席シートにうつってしまったものでしょう。タバコを吸わない人間にとっては、非常に、強く感じられます。特に私は、化学物質を伴う香りで体調を崩しますから、においに非常に敏感になっています。しかし、このときは臭いを感知するのが遅れていました。少しずつ、化学物質過敏が慢性症状に移行しているため、感度が鈍くなっていると思われます。

 タバコのにおいを嗅覚から遮断するために、私は自分のマスクを着用します。マスクは、布マスクです。不織布マスクは化学合成繊維でできており、私は着用ができません。健康被害を受けるからです。手作りマスクに使用できる布は、綿100%のみです。合成繊維は使用できません。それはマスクに限らず、身に着けるものがそうなっています。ただし綿100%もいろいろで、食材と同様、綿栽培の方法や、布になるまでの工程の途中で薬剤を使用するなどで、肌触りなど各段に違うもので、まちまちです。

 職場では、化学物質過敏症であることをスタッフと、作業場によく出入りするスタッフの間では共有されていて、作業時の私のマスク着用は免除されています。トイレや事務室など作業エリアの外に行くときの数分はマスクを着用することにしています。すべての人が事情を知っているわけではありませんので、職場の秩序を守るための合意です。数分くらいなら着用可能ですから。
 マスク(※)を着用しても、化学物質を吸い込むことは避けられません。ただ、スプレーやコスメアイテムなど、ほとんどの化学物質は強烈な香料を添付された加工品になっているので、その臭いを防ぐ目的でマスクを着用します。けれども、本来遮断したい化学物質はおそらく素通りです。香りをある程度防いでいるだけに過ぎません。
 当初はマスクを着用している時間が長かったのですが、そのことに気づくと、やがてマスクの長時間着用が引き起こす健康被害のほうが著しくなってきたのを自覚したので、マスクをしないほうがマシなのです。

(※)これは一般的なマスクのことです。化学物質過敏症の症状も個人によりますから、高度な機能を持つマスクであれば、また違っているはずです。

 私は休憩時間は屋外に出るようにしますし、休日の過ごし方である程度、体調を整えることができます。シフトも臨機応変に休日の日数や勤務時間を配慮してもらえてきたからです。しかも現在は時短労働と土日休業要請があったものだから皮肉なことに体調は良いほうです。ただし経済的には困窮しつつありますけれどもね。


 さて、座席からタバコの臭いがするので、私は自分から「マスクを着用する」ことを決めました。そしてそのことに問題はありません。
 逆を言いますと、平常時にマスクをしている人はたぶんいぶかしげな眼で見られていたはずです。風邪をひいているのかな?くらいは思われる状況かと思います。マスクでなんとか化学物質過敏症の症状を抑えようとしているときには、常にマスクをしている人に向けられるまなざしは、気になり始めると困ったことになりますね。今はそういう場面は少なくなっていると言えます。だって誰もが基本設定でマスクをしているのですから。

 この時、私は過呼吸を起こすようなパニックはあらわれませんでした。
自分でも不思議に思いました。(あれ?マスクを着けることができている)。バスのなかで私がマスクを着けることは本当に稀です。よほど体調が崩れかけていて、ほんの少しのアルミのにおいにすら耐えられないときには着用していましたね。一度始まってしまうとなかなかとまらないほど、せき込むひどい症状期にあったときは、咳エチケットとして着用していました。乗り込んできた乗客の衣類から漂う洗剤の強烈な残り香が、窓をあけたくらいではよそへ流れてくれない時もそうです。臭いを少しでも遮断するために。

 出勤時と帰宅時で、私はバス車内でマスクを着けていたわけですが、状況の違いがあきらかになりました。


昨日と”同じ”、毎日”同じ” では無いんです

 朝は、運転士さんのアナウンスで私は、私の意思を行動を、私自身で決定する余地がありませんでした。帰宅時は、私は、私の意思で私の行動を決定することができました。「それでもマスクを着けることは自分で決めたのだろう」と思われるかもしれません。私は、「怖い」と感じたことを、あらためて自覚しました。「怖い」と感じる人間が、いかほど自分の行動を、自分の意思でコントロールできるものなのか。察していただけると思います。

 ひとりしか乗っていない状況で、執拗な男性の声のアナウンス。条件はそろっていました。そして間の悪いことに、それに抗うには私の健康状態はこの日通常より下がっていました。

健康状態がさがっていた背景(1)
 2021年8月現在、たびかさなる緊急事態宣言延長の環境下にある沖縄では、大型商業施設の一部は土日休業要請が出され、それに従っています。PCR検査をする予定があるとわかったら報告義務があり、ただちに担当エリアは消毒作業が行われます。その時点から該当のスタッフは出勤停止。さらに陽性反応が判明すると、再び消毒作業が行われます。もちろん該当のスタッフは出勤できません。それらは会社のホームページ上で公開されます。PCR検査を受けたスタッフが、感染したのかどうかは明らかにされません。症状が出ているのかどうか、その症状がどの程度であるのかも、もちろん公開されません。ただ分かるのは、PCR検査を受けたことと陽性反応が出たことだけです。陰性反応の場合の記述は見当たりません。
(2)
 この日の私は、2回の消毒作業の前後に遭遇していたのです。
 ただでさえアルコール消毒臭や不織布マスク臭、そして長時間マスクを着用している人の独特の体臭で、体調は悪くなるのですが、仕事場近辺で念入りな消毒作業が行われた日は、特に、頭痛や吐き気、それから精神状態にも影響を及ぼします。化学物質はおそらく神経系に多大な影響を及ぼすのでしょう。

 それはエッセンシャルオイルを用いられておこなわれるアロマセラピーが、心身ともにリラックスした状態を引き起こすのと、真逆の作用であろうと思われます。エッセンシャルオイルは、薬理作用を持つ植物の方向成分を抽出した水より軽い成分のことをいいます。アロマセラピーは、このエッセンシャルオイルを使います。100%ピュアオイルと表現されることもあります。アロマオイルは、エッセンシャルオイルをアルコール希釈していたり、香料など化学合成物質で作られた加工品のことですから、まったく別物であることを知っておいてほしいと思います。


私は人間です。個人の尊厳は尊重されます。

 気持ちが弱っているとき、私は、マスク着用に執拗な運転士さんにあたったときに、特に後ろの座席に座席に避難することが幾度かあります。そこでは運転士さんの目から隠れることができるからです。しばしの間、緊張の糸をほぐすことができます。しかし、それは一時的な避難が自分にとって必要だと自覚するから取る行動です。通常であれば、気にしません。当然のことですから。

 2020.10.14のこちらの記事から引用させていただきます。

リスクコミュニケーションの目的は市民に正しくリスクを理解してもらうことであり、「こういうリスクがあるからこうしなさい」と、選択を強制することではありません。リスクを提示し、どう判断するかは市民に委ねる、というのが大前提です。

「強制はしないけれどなるべく外出を控えよう」というような言い方をした結果、SNSなどで「もっとはっきり言うべきだ」といった批判があがっていましたが、リスクコミュニケーターの立場からするとこれは間違いです。前述した通り、情報を受け取った後の判断は本来各自がすべきなのです。この前提が市民の間で共有されていない現状に、リスクコミュニケーションの専門家はとても歯がゆい思いをしています。 


  私は、意思を持っている人間です。
 マスクを着用するかしないかの判断力も持っています。
 マスクを着用してほしい人の気持ちも考慮したうえで、行動を選ぶことができます。
 私の最終的な行動決定の意思は、私にあります。

 誰にも奪われない


ココロと体を切り離すことはできませんから

 妥協できれば、どんなにらくだろうかと常々思います。たぶんそれが「普通の人」になれる最低限の条件だろうということも、よく分かっています。私はたぶん自分を裏切るくらいなら死んだ方がマシだと考える人間です。少なくとも、その状態で「生きている」とは感じないことでしょう。

 「死んだままで生きてきた」経験のある人間の言うことだと、頭のすみにちょっとでも置いてくれたらうれしいです。

 死んだまま生きてきた人間は、一度、死ぬ一歩手前まで追い詰められて初めて、このままでは本当に死んでしまうと理解しました。心が死んでは、生きていけないんです。そして、死んだまま生きていくには、生きづらさがまさって、生きるのが、とてもしんどいのです。そのしんどさを、ユーモアで乗り切っています。そういうもんです。


健康状態を精神状態を観察する習慣を持ちます

 夏は、

体調を崩しがちです。けれども「夏は体調を崩しがち」という理由に逃げて、本当に健康状態や精神状態が崩れている理由を自覚しないままでいるという事実も隠れているかもしれないのです。

 私は、普段から自分自身の”状態”を観察しています。変化があったら、外部要因をまず検討することにしています。それが無いとどうなるでしょうか。例えば、前述した職場の消毒作業についてです。

化学物質過敏症の症状は個人により差異が大きいです。

 私の場合
●頭痛
●吐き気
●倦怠感
●全身疲労感
●歩いていると、よく躓くようになる
●突発的な希死念慮が生じる

 こんな症状、他のどんなものを要因にしても起こるものです。ですけど、私は、私がこれらの症状に陥った時、高い確率で、環境に化学物質の暴露があると言えます。少なくともそうであることを確認すると、これらの症状への不安感が減るという事実が重要なのです。

「化学物質過敏症かも」と一度だけでも考えてみませんか

 発熱であるとか、明確な痛みの症状を自覚したときは、たいていは病院に受診すると思います。治療な必要なレベルであれば。でも微熱だったらどうでしょうか。「なんだか気分が悪い感じがするな」とか、「気持ちが落ち込んでいるな」とかです。

 「気持ちが落ち込んでいるな」というとき、人々は長年沁みついている判断観念があるでしょう。根性論に結び付くことです。
「そういえば、がっかりしたことがあったけ」とか、「最近、忙しいからな」とか、「楽しいことがないからなぁ」とか、理由付けをいくらでもしてしまう背景があるのです。根性論と同根なのですね。気持ちの落ち込みを、心の問題、気持ちの問題、すなわち本人の問題に帰結してしまうのです。ですから”自分でどうにかするべきこと”という問題に矮小化してしまいがちです。あるいは《がっかりした状況》や《忙しい環境》《楽しいことがない状況》のほうに問題があると誤認識してしまい、やはり問題を矮小化してしまう場合があると言えます。

 そして、問題点がスライドした結果、問題の焦点がすり替わります。その問題解決が最良の対策だと、やはり誤認識してしまうのです。

 夏です。若者の自死を防ぐキャンペーンをよく目にするようになりました。noteでは、#8月31日の夜に があります。これはいわば若者の自死について無関心でいないためのキーワードであり、文字通りの「8月31日に考えよう。取り組もう」という意味ではないと理解しています。

 私は、別視点で思うことがあります。

 個人の「つらい」が、さきほどの根性論に繋がってないか、ということです。だからといって「病気のせいにする」という単純な話ではありません。”病は気から”と古くから知られているように、人の心や人の身体は、思う以上に、想像以上に、繊細だということを言いたいのです。

 もしも私が、実際には化学物質過敏症の症状のひとつで「希死念慮」が強くなった時、これを後付けした理由でぐるぐる考えはじめると、不安を強くなる負のループにおちいるであろうことは簡単に想像できます。でも客観的な要素から潰していくという思考回路の手順を踏むと、その負のループに陥る手前で、コントロールすることが可能になります。
 単純な話で、「あ、これは化学物心過敏症のせいだわ」と、その希死念慮はまるで根拠がないことを自覚します。そうすれば、その症状がおさまるまで、通り過ぎるのを静かに待つだけでいいのです。そういうことがよくあるのです。

コロナ感染防止の過剰対策による化学物質過敏症の発症は増えると考えられています

 化学物質過敏症の人やそれについて知る人たちの多くが警告しています。「このコロナ感染防止対策の過剰なアルコール消毒環境は、新たな化学物質過敏症を発症する人を増やすだろう」、と。私もその通りだと考えています。

 例えば、学校環境についてはどうでしょうか。

学校には、生徒学生たちにとって学習環境を整える義務があります。

学校保健安全法(第6条)
文部科学大臣は、学校における換気、採光、照明、保温、清潔保持その他環境衛生に係る事項について、児童生徒等及び職員の健康を保護する上で維持されることが望ましい基準を定める
~シックスクール問題への対応に当たっての基本的な認識について~
シックスクール症候群化学物質過敏症は、誰でも発症する可能性があります。シックスクール症候群等は、その発症の有無や症状の程度に個人差があるものの、特定の人だけが発症するものではなく、誰でも発症する可能性があることを認識する必要があります。
2 健康被害をもたらす化学物質は文科省の6物質、厚生労働省の13物質だけではありません。また、指針値以下だから必ず安全だとも限りません。
現在、厚生労働省がガイドラインで指針値を示している化学物質は13種類(学校環境衛生基準(文科省)の6種の化学物質を含む。)ですが、これ以外にも多くの化学物質が存在しており、健康被害をもたらす原因となっている可能性があります。ー『学校施設整備時におけるシックスクール対策のポイント』令和2年 岩手県教育委員会資料より


  一般的な理解としては、化学物質の蓄積が個人の許容量を超えると、過敏症を発症するということですから、特定の物質を排除すればよいということにはなりません。日常の蓄積が問題となるのです。現在の環境はあまりにもこのリスクが高まっています。

 この可能性を、頭の隅に、どうか置いてほしいのです。


「もしかしたら」の可能性の幅をひろげるといいことがある

 これまで若者をはじめ、いわゆる社会不適合と揶揄されるようないきづらさを抱える人々について、障害などの医療用語と知識が一般に普及した結果、それに責任転嫁するような傾向も現れました。あるいは学校生活に支障をきたす類の病気とその治療に焦点があてられることになりました。原因の究明が目的ではありません。原因や要因の可能性から、対応の方法や手段は幅が広がります。ひとりひとりが自分にあった方法で、困っている症状に対処することが可能になる可能性が高くなります。
 発達凹凸の特性を持っていることや、なにかしらの診断名がつく症状を抱えていることが、個人や家族の責任になるような風潮は断固として抵抗する必要があるとも思っています。それは本人の責任を問うものではないし、家族や遺伝子や生育環境を問題として掲げ、問い詰めたり、治療を薦めることを目的にする理由はないからです。

 そのことを含めても、学校の学習環境をよりよくする努力は不断のものであると強調されるべきです。絶えず、試行錯誤が繰り返されていくものだと思います。

 そして前述したように、「もしかしたら」と考えることで、根性論をおしのけ、自分が置かれた環境を冷静に観察し、分析し、対処することを身に着けることができるようになるのです。短絡的な問題解決の手段に頼ることで、問題を固定化せずに済みます。「もしかしたら」と予想する項目を増やしてほしいと思います。その情報を提供してほしいと願います。もし、問題を固定化するような誘導であれば、それは一面的な問題にのみ焦点を当てた、本質をとらえきれない可能性を含むリスクを抱えることになると指摘されるでしょう。


最後に

 アレルギー症状を抱える人は、よくその症状を発症した本人に要因があるとされ、本人のいわば健康管理だとか、体質だとか、遺伝だとかと指摘されることが多かったのでは、と思います。しかし、これは生活習慣病ではありません。現代社会の環境によって引き起こされている人類からの訴えです。ほとんどの病がそうではないかと思います。

 環境が人に与える環境について、もっと深い知識が、広く知られる必要があると私は思います。個人ひとりの問題を、一面的な要因で問題解決することにならないように。これはその一面に焦点をあてることを否定するものではありません。私は、一面として、◎根性論につながらないこと◎症状による自覚をもつ機会があること◎対策の可能性の幅を広げること、をここに書いています。どの一面に焦点を当てているのかを明確にすることは大切なことです。なにせ、物事はすべてにおいて多面的に多角的にとらえることが可能だからです。それを一度に、いっぺんに、同時に、おこなえる人はきっといません。だからこそ、丁寧に、紐解いていくのです。

 


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