【出席扱い】は手段。”目的”に設定してしまうデメリットとはなにか
「出席扱い」とは
ここでは義務教育期間である小中学校を想定しています。
「出席扱い」とは、長期欠席児童生徒のうち欠席理由が「不登校」となっている児童生徒に関する取扱いです。
「指導要録上の出席扱い」となり、「出席日数」とは区別されます。
通知表の記載とは異なる場合もあります。
「指導要録」とは学校長が記録します。「出席日数」や「出席扱い」は、指導要録に記す項目の「出欠の記録」に記録されます。
「指導要録」は転校(転籍)したときや進学したときに、生徒が在学する学校長へと渡され、最終的に在籍していた学校には卒業後5年間保管されます。(参照:ホームスクーリング・センター木蔭>つなぎあい>知っておきたい用語)
「出席扱い」とする趣旨
「出席扱い」とするには、学校外の学びならなんでもよいわけではありません。趣旨にもある通り、ある程度の条件が示されています。
マガジン《不登校児童生徒への支援の在り方についてー文科省通知》より
1.義務教育段階の不登校児童生徒が学校外の公的機関や民間施設において相談・指導を受けている場合の指導要録上の出欠の取扱いについて
なによりもまず理解しておきたいことは、「出席扱い」とは多様な学びを保障するものではないことです。あくまで日本の義務教育制度を前提としたもので、つまり学校教育の学習課程に関する取扱いをいいます。
日本国憲法では「普通教育を受けさせる義務」とありますが、日本の教育制度においては普通教育を目的とする学校教育だけが現在公教育となっています。学校教育以外の教育(自由教育あるいはオルタナティブ教育という)についての制度は整備されていません。
現在、目にする「多様な学び」とは、学校教育の在り方の多様化を意味することがほとんどです。しかし、普通教育とは、学校教育のみに限定しておらず、学校教育を含む多様な教育のことをいいます。
普通教育の目的は教育基本法に示されています。学校とは、普通教育の目的を達成するための目標を掲げた学校教育法に則り、その目標を達成するために行われる教育機関です。(参考;ホームスクーリング・センター木蔭HP>そだちあい>ホームスクールはじめ)
繰り返しますが、「出席扱い」とは普通教育の学校教育を含む多様な学びの在りかたすべてを対象にしていません。学校教育に照らし合わせて、学校外における学校教育の学習を支援する目的で取り扱われます。教育機会確保法における不登校支援の在り方も同様です。
「保健室登校」や「別室登校」、「校門前までの登校」その他、担任との面談で「出席扱い」となるのは、この趣旨に基づいたものと考えることができます。
「出席扱い」は、「出席の代替と認めたもの」ではない
マガジン《『休校要請から~』シリーズ》でも取り上げてきたテーマですが、「出席扱い」は学校外での学習を登校や授業を受けることの代替として認められてはいません。根拠は以下の見解が文科省にあるためです。
中央教育審議会初等中等教育分科会は、平成15年(2003年)5月15日に中央教育審議会が文部科学大臣から受けた諮問「今後の初等中等教育改革の推進方策について」の具体的な検討を付託され、審議を進めていました。
このうち義務教育に係る諸制度の在り方について,本格的に審議を開始した平成16年(2004年)4月以降の本分科会における審議の概要を公表しました。そのときの資料のひとつがこの「各国の義務教育制度の概要」です。しかしこれを公式見解とみるものではありません。
なお、この資料を根拠に【法的に】家庭でおこなわれる学習によって義務教育を修了するものと認められないと結論づける記述を世間一般の言説で目にすることがありますが、その見解は正しいとはいえません。この「まとめ」は審議した論点の多くについて「一定の結論を提示するものとはなっていない。」としていますし、根拠となる「法」は存在しないからです。
そのためあらゆる手続きを経て、学校外の学習が「学校教育の修了となる」よう模索する道が残されています。
学校外施設の利用が「出席扱い」になる基準
通知本文にある「出席扱いの要件」によれば以下の通りです。
要点
・社会的な自立を目指す
・公的機関(教育委員会等が設置する教育支援センター等)の通所
学校外の学習であればなんでも「出席扱い」と認められるか、というとそういうわけにはいかないことが分かります。
いわゆるフリースクールには3種類あると考えると理解できます。
このうち学校が連携することが可能な場は、①教育支援センター(公的機関)および公的に業務委託した民間施設と、②や③のうち教育委員会や学校長が「適切であると判断した」施設に限ります。
近隣にフリースクールがないかを学校や教育委員会に問い合わせても「ありません」と返事がくることがあります。その理由は下記のnoteに書いています。
『教育の機会は多様にある(その1)』【フリースクールとはなにか】
教育委員会や学校が「適切である」と判断するための目安(ガイドライン)を作成しておくことが望ましいとあり、その参考にする内容が下記リンクの『民間施設についてのガイドライン』です。ガイドラインに忠実であるかそうでないかは、その責任と結果をどのように引き受けるかの姿勢にも大きく左右されます。
家庭と学校および教育委員会と民間施設(フリースクール)の連携は、三者の信頼関係にかかっているといってよいのかもしれません。いずれかが依存的であったり、責任を一か所に押し付けるような構造が生じるようでは実現するのは困難です。
さらには地域住民の理解も加えなければならないでしょう。オルタナティブスクールを含めたフリースクールは、スクールごとに教育方針も運営方針も異なります。その活動内容を地域住民が広く受け止めることが肝要になるでしょう。なぜなら地域住民に不安と不満が生じれば、その矛先は「家庭の責任」「学校の責任」「教育委員会の責任」果ては「文科省の責任」という具合に責任の所在を突き止め責め立てる世論にいとも簡単に結びついてしまうからです。
責任を引き受けることと、責任を取ることの意味の違いを理解し、地域で引き受け、「こどもの育ち」を理解しあっていく必要があるものと思います。
「第3の居場所(サードプレイス)」の言葉も登場しましたが、(なるほど)と思いいる一方で、深く考えてみると違和感を覚えます。なぜなら、あたかも「こどもをどこかの場所に囲い込む」思想だからです。
こどもは学校に居るもの、という固定観念が、「学校以外でもいいよ」と寛容な姿勢を見せているようでいてなにも変わらないのです。こどもの姿が街の中にみられないというのはそういうことです。こどもは、どこか「こどもの居るべき場所」に居なくてはいけないと決めているのは大人の都合です。
家庭学習と「出席扱い」
フリースクール等の利用のない家庭で過ごす不登校児童生徒を対象にした支援の在り方です。
マガジン《【資料】不登校児童生徒への支援の在り方についてー文科省通知》のnote『『義務教育段階の不登校児童生徒が学校外の公的機関や民間施設において相談・指導を受けている場合の指導要録上の出欠の取扱いについて』『 不登校児童生徒が自宅においてICT等を活用した学習活動を行った場合の指導要録上の出欠の取扱いについて』-不登校児童生徒への支援の在り方について (通知) 令和元年10月25日による変更点を検証』の「2」です。
2.不登校児童生徒が自宅においてICT等を活用した学習活動を行った場合の指導要録上の出欠の取扱いについて
これも前述の内容と同様です。
既存の義務教育制度すなわち普通教育のうち学校教育の学習課程を対象とした取り扱いの件です。一定の要件を満たすなどの条件があります。
前述した【「出席扱い」は「出席の代替と認めた」ものではない】ことを今一度確認してほしいと思います。
「家庭で学校と同等と思われる学習をしている」場合であっても、その条件だけでは、「出席扱い」の条件に適っていないことが理解できます。いずれかのフリースクールや民間教育が運営するオンライン塾などの利用が最低限必要となると解釈することができます。
「出席扱い」とする目的が、学習の履修を証明することや学習内容を理解し、身に着けたと評価することではないからです。あくまで不登校児童生徒の支援の一環であり、その学習意欲を途切れさせることなく支えること、登校していない事実によって自己肯定感を下げることがないよう支援するものといえるのです。
「出席扱い」を手段にする必要があるとき
「出席扱い」は手段であって、目的ではありません。
なんのために「出席扱い」とされる必要があるのかを見直すことが重要です。
学校を卒業するためでしょうか?
いいえ。
小中学校は「形式卒業」といって、登校0日でも卒業することができます。これは文科省からの通知で「欠席日数を理由に卒業できないとしてはいけない」ことが明らかにされたことからきています。逆に言えば「登校0日でも卒業することができる」と解釈できるためです。
出席扱いは正しくは出席日数に読み替えられません。指導要録では「出席扱い」となった日数が記述されます。
義務教育を履修した(相当の学習内容を身に着けた)と認められるためでしょうか?
いいえ。
義務教育とは「親・保護者が保護する子女に普通教育を受けさせる義務」のことです。普通教育とは学校教育のことではありません。学校教育は普通教育の目的を達成する目標を掲げた公的な教育機関をいいますが、これを活用して普通教育を受けることができます。この位置関係は把握しておきたいことです。
学校教育の在り方は多様化しつつありますが、学校という施設を利用し、教室のなかで授業を受ける形態であることが標準です。その形態以外で「学校教育を履修した」とする法的根拠は今のところ確認できません。
また学校教育は小中学校を6年間と定めています。これが「我が国の義務教育制度」にあたる内容です。これを義務教育と称しています。
義務教育を履修した証明として「出席扱い」を求める根拠がありません。
「出席扱い」で支えるこどもの自信と信頼
「出席扱い」に係る支援の在り方や「出席扱い」とするのが適切であると判断できる教育機会の内容は、「配慮」という情緒的にケアする部分が際立ちます。
なぜなら、こどもの自信喪失によって、その未来が暗雲としたものにとらえられないように配慮することが最大の目的であるからだと考えられます。
そのことをふまえて、家庭からは「出席扱い」を目的とすれば大丈夫だと考えるのはやめて、そのまえに「出席扱い」に期待することはなにかを明確に思い描いてほしいのです。
こどもに自信をもってもらいたいから、が本来の動機
思い思いに毎日を過ごすこどもをみて、その様子の「その子らしさ」、個性といったものを認めてもらえたと子ども自身に伝わった時、それはこどもの自信につながるのではないでしょうか。
それがどんなカタチであれ、「学校や先生や教室のみんなが、自分もがんばっているんだねと知ってくれている」といった感覚は、「学校に行きたくても行けない」心を癒してくれるのではないでしょうか。
学校に行きたくても行けない理由や事情は人それぞれで、まさに様々です。学校のやりかたとは違う内容の、違う方法の、違う進度で成長するこどもは、ただその「違い」があるだけです。劣っているとも優れているともありません。
「受け容れてもらえた」と感じることの機会が、「出席扱い」のカタチとして期待していることなのかもしれません。
だとしたら、別のカタチもあるはずです。
別の手段もあるという可能性です。その有効な手段は、こどもそれぞれで異なるでしょうし、学校との関係性でも違ってくるのではないでしょうか。
「出席扱い」にとらわれず、本来の目的を思い出して、より有意義な形が生まれるとよいなと思います。
学校教育(小中学校)の学習課程と同等だと確認する手段になるのか
これは正直、微妙なところだと思います。なぜなら「応援する気持ち」「支援する気持ち」を「出席扱い」のカタチであらわされているからです。(ハッキリ言って、”支援の在り方”なんて「お気持ち」なのです。なぜなら学校で授業を受ける以外の教育の機会を評価する具体的な指標を示した法規、オルタナティブ法や普通教育法にあたるものが日本の教育制度には存在しないからです。)
試験で合格点を取ればよいというものでもありません。なぜなら学校教育は単に学力だけでなく、学校生活そのものが学校教育に含まれているからです。
小中学校という6歳から15歳までの成長段階において、特に学校教育は人格形成を重視しています。学校社会における生活態度から測られることが多いでしょう。熱心に取り組む様子や進歩は点数や宿題の提出物の出来だけでは測れない普段の様子から確認するものであろうことは、家庭においても同様のことと思います。「できる・できない」だけでなく、「挑戦する気持ち」や「行動の結果を省みる姿勢」、「工夫をこらす様子」など想像できるでしょう。言語化できない「気づき」の共有を総合して、教育と学習の場が創られていると考えられるからです。「気づき」を共有して、総合的な評価を記すのが「誰か」という問題です。
本当に家庭で過ごしている様子を、学校教育を履修したものとするためには教員資格を持った者が、在籍する学校に勤めて評価を作成する立場にあり、学校と同等の時間を使ってこどもと過ごす必要があるとまでいわないといけません。オンライン授業を受けるだけでは到底足りません。普通教育を学校教育でかならず達成しなければならないというのであれば。
高認は、「中学課程から高校1年程度」が試験内容といわれていますが、「高校卒業した者と同程度の学力を有する者」と証明する国家資格です。高認(正式には「高等学校卒業程度認定試験」)を受験する目的でおこなわれる学習に取り組み、高認試験で好成績を取得したのであれば、結果的には学校教育と同等の学習に取り組んだと証明できるといえるかもしれません。
「出席扱い」を目的としたとき
学校に行かないのであれば「出席扱い」になるよう対策しなければならないと考えた場合には、どんなデメリットが考えられるでしょうか。
想像に容易いと思います。
「出席扱い」を獲得するための対策が、こどもに悪影響を及ぼすとき
・勉強することがつらい。
・「学校」を思い出すことがつらい。
・教科書やドリルを解くという学習方法がつらい。
・「評価される」という扱いを受けることそのものがつらい。
・興味のないことをタスクとして課せられることがつらい。
・「しなければならない」と強制されることがつらい。
・「これをすれば学校に行かなくてもよい」と条件付き自由で制限されることがつらい。
・「勉強ぐらいしたら?」と、最低限のこともできないと評されているかのように感じて、人間扱いされないのがつらい。
自信喪失することです。
本来、「出席扱い」の取り扱いは、長期欠席になっている不登校児童生徒の自信を支えるものと考えれば、これは本末転倒です。
「出席扱い」になるためにこなければならないことがあるというプレッシャーが悪影響を及ぼします。
「学校に行かない」にしろ「行けない」にしろ、気持ちが沈んでいるときです。「ここは安全地帯だ」と確認できなくなります。安心できる居場所がなくて、いったいなにをする気力が生まれるというのでしょう。
「出席扱い」が免罪符となるとき
「出席扱い」は、学校に行かないことの免罪符にはなりません。
フリースクールやオルタナティブスクールに通う場合に、「出席扱いになります」という文句は、「出席扱いになることを求める」家庭には有効かもしれませんが、それ以前に、「自由」を活動方針とするスクールの存在意義を脅かします。
民間のスクールは利用者の利用料や寄付で運営がなりたっているところが多いでしょうから、利用したい人のニーズと運営方針との葛藤は大きなモノでしょう。不登校の受け皿として方針が定まっているなら構わないかもしれません。いわゆる不登校支援の団体です。
しかし、それはオルタナティブ教育ひいては普通教育の存在を薄れさせます。ますます家庭にとって、こどもにとって、社会にとって、日本では学校教育だけが教育なのだという信念を強めてしまうでしょう。多様な教育が姿を消していきます。
「出席扱い」を有効に活用するために
「出席扱いになる」ことがメリットにみえる民間の教育活動があります。
それらを目にしたとき、「出席扱いを獲得しなければならない」という思考におちいることのないように気をつけるにはどうしたらよいか、と思うのです。
どうすればよいのでしょうか。
まず、家庭が主体となって、みずから「知る」ことだと思います。
「出席扱い」について説明することは、学校からすれば、良かれと思っての提案になるかもしれません。
不登校支援の立場からも、それは「よかれ」と思ってのことかもしれません。
なぜなら、多くは、「教育とは学校で教育を受けること」だと考えているからです。学校に行かないのであれば、「その代わりを考えなくてはいけない」と思い至るからでしょう。
そこには「多様な学び」という考えが抜け落ちています。
多様で自由な学び・オルタナティブ教育・自由教育は「学校の代わり」や「学校の代替物」ではありません。学校教育と対等の位置関係にあるもうひとつの普通教育の選択肢です。
その法整備がいまだ確立されていないため、逆になんの制限もありません。ひとりひとりが「こうでありたい」を実現するチャンスです。
もし社会が学歴のみを重視するのであれば、多様で自由な学びはそこに存在することができません。
もし学歴を重視して社会的地位を約束してほしいと願うのであれば、多様で自由な学びはどこかに隠れていきます。
「出席扱いになる」ニーズにこたえる事業は喜ばれていますが、それらの事業があふれる代わりに、「出席扱いになるべき」といった思考が不登校対策の中心だと捉えてはいけないと思います。そこで目的と手段を取り違えるような事態を起こしてはいけない、ということです。
「出席扱い」は目的ではありません。手段としてどのように有効であるか、そして現状、その手段を用いることが有益なのかどうかを親と本人から聞き取り、助言するようなサポートがある場所に出会ってください。
誰のために?
こども自身の願いを支え、必要な助けにあなたがなるためです。自分のために、です。
こどものためになることは、こども自身が一生懸命に考えることでしょう。それだけの時間が必要だからこその今なのではないか、と思います。
ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。