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言いっぱなし・聴きっぱなしの約束

 胸にひとりしまい込んでいるのはとても苦しい。話せる相手は誰だろうか。聴いてくれる人はどこにいるだろうか。そんな思いで過ごす日々が誰しもあります。

 わかってほしい。でも、わかってもらえない。

 どれだけ思っても、どれだけ言葉にしても、どれだけ届けと願っていても、その思いはどこにも行けず、どうしたら…どうしたら…、と真っ暗なトンネルにひとり、前も後ろもわからず目を閉じているような心地。

 吐き出したい /  誰かに聴いてほしい
 みんなどうしてるの。わたしだけなの? / 同じ気持ちを感じたい


求めているのはなんだろう

 聞いてほしい人は共感してほしいのです。ですから不特定多数のなかで「私の話を聞いて!」と大きな声で、もっと大きな声で飛ばします。共感と賛同と応援と崇拝だけがチカラの源です。そのエネルギーが明日の戦いに備えるために必要なのです。エネルギーを集めることで、彼らは闘っています。批判と否定と疑問は一切受け付けることはしません。そこで戦うエネルギーを使いたくないからです。同志を鼓舞するパワーを持っています。彼らのような闘う集団はそうやって大きく膨らんでいくのでしょう。

 聴いてほしい人は、ただただ疲れています。戦うことに虚しさを覚えています。どうやってこの先を歩んでいいのかが不安です。でも、先に進みたい。その気持ちは持っています。どうしていいか、わからない。漂うことに疲れているのです。すがりたい気持ちがあるでしょう。〔聞いてほしい〕集団が凸であれば、〔聴いてほしい人〕は凹なのかもしれません。時にぴったりとパーツがあわさり、エネルギーを注ぎ込む信者になりえます。信者は応援することで彼らにチカラを与え、批判者や疑問を呈する人々の壁となって自己犠牲を払うことで自分の価値を見出すこともあるでしょう。どうしたらいいのかを「聞いてほしい」声の大きな人に委ねてしまえばなにも考えないで済むからです。そしてなにかはしているように錯覚できるからです。


必要なのはなんだろう

 〔聞いてほしい人〕には役割りが必要です。それはとても重要な役割だと感じる仕事です。その意見はとても重要だと価値を認めてくれるものです。
 〔聴いてほしい人〕には自ら話すことができることが必要です。奪われやすい彼らは奪われることも奪うこともない護られた場所が必要です。
 そして彼らはたぶん同じ場所にいてはいけないのかもしれません。彼らはどちらも同じ立場にいて、似た境遇にあって、近い感情を持っていて、願いは同じなのかもしれません。でも、それらをよりよくするための手段はきっとまるで違っています。彼らは同じ課題を抱えているからといって同じ場所で同じように扱われればよいというものではなさそうです。

 〔聞いてほしい人〕には、その発言を冷静に受け止め、実質的な意見として昇華する存在が必要なのではないかと思えます。彼ら自身により情報が与えられることは重要ではありません。なぜなら彼らにとってそれはもう充分に満ち足りていると感じているからです。自らに不足はなく、周囲に不足があると感じているからこそ、自分の貴重な意見に耳を傾け、受け取るよう要求しています。受け取ることを、です。それらは一片の改編も許されません。文字通り、言葉通りに受け止めていると示さなければなりません。そうすることで彼らは重要だと受け止めてもらえたと安堵しますが、なにかを変えようとは思っていません。自分も、周囲も、なにをも変えることが真意ではないのです。この瞬間に、無力感を払拭できれば大丈夫です。
 預かった発言を意見として変換し、それを活かせる人は別にいます。ただその人物がどういった人であるかによってどのようにも利用されてしまう危うさを〔聞いてほしい人〕は抱えています。自分の首を絞めるかもしれないということを。ただしそのことに気づくことはありません。なぜなら、彼らは不足がなく完璧だと自分を信じているからです。そんな自分たちがむくわれないことがおかしいのだと訴えることこそが、彼らの真意です。

 〔聴いてほしい人〕には、その言葉が引き出されるような安心できる存在、発した言葉を肯定もせず、否定もせず、ただただ在ることをゆるされていると感じられることがとても重要です。それが言いっぱなし・聴きっぱなしとよばれる場です。当事者の会とも、自助グループとも、ピア・サポートとも呼ばれます。
 そこでの約束事があります。

話したこと、聴いたことは口外されない
場が終了したあとで蒸し返されない

 聞き流されることが重要なのです。悩みや問題の核心を明確にすることは重要ではないのです。だから聞き返すことはしなくてもよいのです。独り言は現実世界ではハードルが高いものですから、そこに聴いている誰かがいることが大切なのです。なかには電話をかけるふりをして家でもどこででも独り言を言い続ける強者(つわもの)もいるかもしれません。

なにを話しても大丈夫

 誰かの口から他所に伝わってしまうことで、自分が窮地に追い込まれることが無いという安心が絶対的に必要不可欠ですから、記録を取られることもあってはいけないと思います。記録として共有するならば、それは事前に了承を得ていなければなりません。どんな理由であれ、その場で話された内容はどこの資料としても使われてはいけないくらいです。それは口外される可能性を高めるからです。どこの誰の発言かわからないとしても、それならよいと思う人もいれば、それでも恐怖を覚える人だっているからです。些細なミスが自分を痛めつける格好な材料だと知っている体験を持つ人ならなおさらでしょう。匿名参加であることもやはり重要な点になります。外で会っても通りすがりでいられるという関係性が安心だったりします。


解決ばかりが支援じゃない

 支援する方々はよく言われました。「傾聴」や「寄り添う」ことです。それは同調することや同意を示すことではありませんね。賛同でもありませんね。肯定でもありません。味方であると伝えることが最優先するべきことかもしれません。
 支援はケアとサポートを分けて考えてほしいと思います。

 味方であると伝えるケアする支援
 本人の問題解決のためにサポートする支援

 同じ立場でできるものでしょうか?とてもそうは思えません。
 味方であり続けるためにはときには自分の価値観を捨ててでも同じ立場をとる姿勢を見せる必要があるでしょう。見捨てないよと常に気をかけている必要があるでしょう。支援者の個人の人生を後回しにしてまで、同調する必要もあるでしょう。同じ感情で代わりに発露する役目を負うこともあるでしょう。
 サポートする支援ではときには味方であるとは言い難いことを伝えなければなりません。ときには突き放すこともありえます。ある程度の距離を維持することは自立を促すために必要条件だからです。同調せず、醒めていなければ見えないことがあるからです。
 どちらも寄り添うことが重要でありながら、その手段は違っています。

 どちらも必要ですが、多くはケアを必要とし、そしてケアから卒業できないままでいることも多いものです。なぜでしょうか。ケアが不適切あるいは不適合だったという要因があることでしょう。聴いて/聞いての区別がついていなかったり、正しさや正解を求めて更生や教育指導したり、弱者として見下ろしたまま同じところに在ろうとしないことです。支援者が個人の価値観を優先し、支援者としての役割が機能していないときです。なぜなら、そんな在り方でいる人々もまたケアとサポートを必要とする状況にあるからです。

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