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人知れずおそらく早く止まってしまう予感のする夜に

羊文学と燃やしたい幽霊燃やせない幽霊みたいなこととを突き合わせてみて視力検査的な文章を書いてみるつもりだった夜に襲われた耳鳴りには心覚えがあった。

人が夜の散歩でしか外に出れなかった時期に、初めて買ったメーカーズマーク(それはまた後日Enterボタンを押すためだけに使われる運命にある)を飲みすぎてしまって、楽しみにしてたとろろ昆布ラーメンを友達だけに食べさせてしまったこと、今はもうない喫茶店に漂うあの時は吸わなかったタバコ、アイスコーヒーに垂れていく水滴、胃心地の悪さ、ふくよかな黒縁の出す三つ葉のお味噌汁と生姜焼き、吐き出したバターと醤油と春菊、それらの塊があまりに酸っぱくて臭くて頭を打ったこと。

あのノイズは歌っても下手なのがバレないからちょうど良かった。まいちゃんの代わりになってくれる音割れが鼓膜を破ろうとする中で、布団の中でとてつもなく凍え縮こまりながら頭を振って、膜の中で、口をパクパクして、あらゆる圧着を破ろうとしていた時間は夢のようだったのに現実だったから、翌日にしかタンコブに気付けなかった。

その時浮かんでいたのをさらに作り出してみると、公民館で親を待って暇していて、当時の流行っていたドラマのギャルサーと同時期くらいのこれまたドラマのナポリタンの主題歌を身体に流しながら、プーマの黄色い折り畳み傘を一段階伸ばして振り回して、汗を飛ばしながら踊っていたこと、それはたしか算数の宿題を終わらせた後で友達の家に行くまでの時間だった。あとは塾の帰りの親の迎え待ちや電車の乗り換え待ちでSCANDALのHARUKAZEを聴きながら、塾の裏やプラットフォームを何度も往復して走って体力をつけようとしていたこと(後者は終着駅まで寝過ごしてしまうのとセットだった)。

そういう記憶はたぶん重なり合って膨らんで捻れたり縒り合わされてきたものであって、そんな感傷の束は、今日はひさしぶりに頑張ったためで、ひさしぶりが浮かぶのはあの頃みたいだったから。そんなこんなで遡行的にたくさんのことが筆記されたけれど、世界が滑っていくのはあの頃とは違うことだった。

なんならツインテールの小さな喉すら排水溝に泡を立てるくらいの詰まりしかなく滑っていったし、先進的な腰振りで善意を唱える人の持つ優しさが当たり前に事前に排除していることすらも、普通の人の普通も、排除された人の叫びも滑っていくのをただ眺めているのが今日この頃で、つまりは、無ですらなく非であって、それならせめて嬬恋村のキャベツの甘みを感じたい。

三人称的な声の火が左右の耳で揺らいでいたのを聴いた食後(あの食堂のカレーライスはいつも美味しい)に、いてもいなくてもいいことをいつも通り考えていたけれど、いてもいなくてもいいことを賢い人は真剣に考えているみたいで、一人はTwitterの消滅願望を、一人は透明人間を、一人は喫煙所的な空間を主題にしていた。概念を定義してはこねては作り直してってやってるから、自分としても頑張って!って彼ら/彼女らにエールを送っているけれど、結局のところ行き着くのは、考えても考えなくても良い、気にしなくても気にしてもいい、ってところなのがなんとなく見えている。それがどれだけ難しいことかをわかっている。これは生活の難しさの話なのだろう。生活ほどすることも考えることも難しいことはないのだし、健康の立場には不健康的なものに不をつけるくらいしかできることがなかったのだから。

およそこんな感じのことが滑っていくのだから、パルコのエスカレーターの流れの中で、南アメリカ大陸あたりの民族のConferenceのおよそ二つの打楽器と舌の溌剌とした捻れを聴いて、久しぶりに踊ってみようかとダウンのコートのチャックを少し下ろしながら思いつく。そんな昼も今お風呂に入る前のシラフの時間に思い出す。これからこの身体は意味もなくお風呂で泳いでいくらしい。止めることもできない夜に。人知れずおそらく早く止まってしまう予感のする夜に。


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