「あなたの言葉は、心をなぞる」と言われた日、共鳴を感じた
書くことについて語るとき、私はよく「心をなぞる」という言葉を使うのだが、これを最初に言ったのは姉だった。
あれはたしか、10年くらい前にmixiで書いた、ある日の日記を姉が読んだときのこと。
「今回の日記、なんか良かったよ」
「え、本当に? 不快には思わなかった?」
「いや全然」
そのとき書いたのは、私としてはとても言いづらいこと。できれば隠しておきたいような、申し訳ないこと。もしかしたらこれを書いたら、少なからず非難を受けるかもしれない、という怖さもあった。
それでも書くという行為に及んだのはやはり、自分の中でそれに対する想いが湧いて消えず、内圧が高まったから。そういうときはとにかく無性に、「書かなければ。書かなければ。この想いを言語化しなければ」という感情に襲われる。
世間から同情をもらうために工夫した文面ではなく、ただただ自分の気持ちを正直に書く。それもただ「悲しい」とか「悔しい」というわかりやすい表現ではなくて、細かく複雑な心のヒダに沿った言葉を見つける作業に徹する。
自分の内面に潜り、嘘偽りも美化も盛ることもなく、むしろ我を消すような、何にも偏らないように書いた、罪の告白。その罪に対して、どう向き合い、どう動いたか――
書き上げた日記を公開し、読んだ人たちの反応が届くまでの間――緊張する。そして最初に読んですぐ感想をくれたのが姉だった。
「なんていうか……あなたの言葉は、心をなぞるね」
「心をなぞる、とは」
「や、うまく説明できないけど」
「そこ大事なとこー」
「なんていうか……起こってることは誰にでもありそうなことなんだけど。白でも黒でもなく、グレーなところを、ともすれば見逃してしまうような、あるいは見ないふりをしてしまうようなところを、あなたはなんとも絶妙な感じで表現するのよ。そんでなんか、見つかっちゃった! って感じになるの」
「見つかっちゃった、とは」
「よくわかんないけど」
「そこ大事なとこー」
正直、姉が何を言っているのか、そのときは理解できなかった。
「……なんかよくわからんけど、褒められてるのよね?」
「褒めてる。褒めてるし、もしかしたらそこが、あなたの書く文章の魅力なんじゃないかと思う」
*
重い内容だったこともあり、コメントはすぐにはつかなかった。いつもノリだけのコメントをつけていた人は特に、敬遠していたと思う。
やがて、ぽつん、とコメントがついた。
私にも、同じ経験があります――と。
その方も、罪の告白を綴った。
決して法に触れる話ではないのだが、その方の罪の告白を見て、わかったことがある。姉が言っていた、「見つかっちゃった」というのはこれなのかと。
その方の告白に、嫌な感じはまったくなかった。人は――その罪を何かに偏ることなく告白し、心から申し訳なく思ったとき、嫌悪や憎悪は湧かないのかもしれない。
私の罪の告白についたコメントは、そのたった1つだったけど。ノリだけのコメント数が増えることよりも、そのたった1つが私にはとても嬉しく、響いた。心と心が、澄んだ音で共鳴し合ったように感じた。
*
その後も、私が書いたものを姉に読んでもらって言われることは、やはり「心をなぞる」だった。書いたものが姉に響けば「心をなぞった」。イマイチなときは「心をなぞっていない」。
想いや心の機微というものを、うまく――技巧的な意味ではなく――なぞり、言葉で表現することができたとき、得られるものは姉からの良い評価だけではなかった。私自身の、悩みやストレスからの解放、浄化にも繋がった。
そして心をなぞれたと思えた作品は、人数は多くはないけれど、共鳴を感じた。コメントがつかなくてもそれはわかる。エブリスタで公開した小説などは、第一話を読んでくれた方が、そのあと最終話まで一気読みして、最後にお気に入りの印をくれたから。
小説にしろ、エッセイにしろ、密かに綴る日記にしろ。書くときにはいつも、心をなぞれるかどうかが、私の中で最重要事項となった。
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