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【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(8)

第1話あらすじ

深夜、美咲の部屋のドアを軽くノックする音。
部屋に滑り込み、足音もなく颯爽とベッドのそばに近付く気配。
夏掛けがそっとはぎ取られる。

「やっぱり」

白衣を着た雪洋がため息をつく。
美咲は涙まみれで泣きじゃくっていた。

すみません――
声も出ない。

目の前で揺れる、羽織っただけの白衣の裾に美咲は手を伸ばした。

「どうしてあなたは……白衣だと素直なのに……」

しがみついている美咲を見て、雪洋はまたため息をついた。ベッドに腰掛け、美咲の頭に優しく手を置く。

「さっきは絶対無理してる顔だと思ったんですよ」
「病気の話、思い出してるうちに、眠れなくなって……」

嗚咽まじりに説明する。

「何をそんなに思い悩んでいるんですか?」
「何って――」
「私は死ぬのかしら、とか?」

図星を指されて思わず息をのむ。

「あのときと同じ――本当は泣きたいくせに、人前で愛想笑い浮かべるの、癖なんですか?」
「あのときって……?」

どのときのことを言っているのだろうと、首をかしげて雪洋を見る。

「最初に会ったときですよ」
雪洋は苦笑して答えた。

「――美咲の症状は命に別状ないと言ったでしょう? 私も言い方がよくなかったですね。驚かせてしまって申し訳ない」
「頭ではわかったつもりです。でも……っ」

気持ちは納得できていない。
納得する日なんてくるのだろうか。

「美咲の場合、問題は別のところにあります。美咲自身がわざわざ悪化させる道を選んでいるということなんです」
「……え?」

体を起こす。
今、聞き捨てならないことを雪洋に言われた。

「何言ってんですか。私は治りたいって思ってますよ」
「でも心のどこかで、もっと重い症状ならいいのにと思ってはいませんか?」
「……どういう意味ですか?」

胸がざわざわとして苛立ちを覚える。

「こんな中途半端で誰もわかってくれないなら、いっそはっきり病人だとわかる症状になればいいのに。そしたら堂々と休むことができるのに。――どうですか?」

雪洋の言葉に美咲の表情は凍りついた。

奥歯が痛い。
無意識に歯を食いしばっていた。
なぜか――
雪洋の言う通りだからだ。

「……先生は不謹慎だと思っているんでしょう? 私の症状なんて、臓器を侵された人たちに比べたら大したことないのもわかってます」

何かのスイッチが入ったように、いらついた感情が頂点をめざす。

「美咲を責めているわけではありませんよ」

きっと今、自分はひどく醜い顔をしている。
わかっている。
感情が、抑えられない。

「先生の言う通りですよ。重症じゃなくてよかったけど、いつも中途半端な症状ばかり……! 休みたくても説明できない。理解してもらえるとも思えない!」

歯を食いしばるのをやめて口を開くと、とげとげしい言葉ばかりが吐き出てくる。目からは、中途半端故の悔し涙がこぼれる。

「何だ、休みたいんじゃないですか」
雪洋は安心したように微笑んだ。

「休みたいですよ! 本当はもう会社なんて行きたくないっ」
どうして私、先生に怒鳴り散らしてるの?

「痛いのに堂々と休めない! 入院するほどでもない! 治りも……しない……っ」
私、いつからこんな風になってしまったの。

なんて最低な女。
口が勝手に動く。
感情を、止められない。

「なんで私、いつもこんな……中途半端な症状ばっかり……!」

暴走する――

「こんな……体……っ」

気味悪い紫斑が出る足。
歩いただけで腫れる足の裏。
激痛の関節。
ぼこぼこと醜くコブが出る指――

これからも続くこの症状、この体。

冗談じゃない。
冗談じゃない!!!

「みんな人の気も知らないで『その指どうしたの』『その足どうしたの』って、こっちが聞きたいわよ! 『早く治して』って、治せるわけないじゃない! 医者が『異常無し』って言ってんだもの! 『何でバアサンみたいな歩き方してんの』って、痛いからよ! 私だって好きでやってんじゃないわよ!」

なんで私だけ
なんで私だけ
なんで私だけ!

なんで私がこんな目に遭わなきゃならないの!

誰もわかってくれない
誰もわかってくれない
誰もわかってくれない!!!

「どうして私が! どうして……!」
雪洋は何も言わずに、じっと見守っている。

「こんな体……こんな体……!」
頭に、血が上っていた。

「こんな体もういやぁあああっ!」
「美咲!」

悲鳴のように叫び、目に入った枕元の棚にある物を、躊躇なく、両手でなぎ払った。
読みかけの本、ペットボトル、電気スタンド――
それらが凄まじい勢いで横へ飛んだ。

本は栞を吐き出してうつ伏せに落ち、ペットボトルは壁まで転がり、電気スタンドはコードに引っ張られて床へ叩きつけられた。

派手な音がおさまった時、美咲は雪洋に抱きすくめられるようにして、両手を押さえ込まれていた。

「……ケガはありませんか?」
すぐ耳元から感じる雪洋の声。
ただ優しいだけの声ではなかった。

やみくもに物へ当たった代償は、すぐに激痛となって襲ってきた。悲鳴も出ないほどの痛みでわななく両手を、雪洋の手が包み込み、さすった。

「止めるのが一瞬遅かったですね」
さする手が止まり、雪洋が力尽きたように美咲の肩へ額をつけた。

「――今日はここまでにしなさい」
感情を押し殺したような声だった。

雪洋の行動に、美咲の体は一瞬強張った。
だが初めて見る雪洋の穏やかではない様子と、触れた部分から伝わってくる鼓動の大きさの方が、驚きが強かった。

普段の飄々とした雪洋とはまったく違う。
顔は見えないが、何だか雪洋の方が泣きそうだ。

「今度から自暴自棄になったら私に当たりなさい。全部受け止めてあげますから。だから物や自分に当たるのは、もうやめなさい」

本気で心配している。
本気で心配させてしまった。
手の痛みとは違う、胸の痛みに襲われた。

耳のすぐそばから振動とともに伝わってくる声に、美咲は震える声で、ごめんなさい、と応えた。
その声で我に返ったのか、雪洋が体を離す。

「いえ私こそ……。白衣を着ているとはいえ、嫌な思いをさせてしまいましたね」

美咲は首を横に振った。
声が震えたのは怖かったからではない。
それに、嫌ではなかった。

「美咲自身がわからない病気なのだから、他人では然もありなんですよ。共感も助言も難しいはずです。でもね、もう大丈夫。大丈夫ですよ」

何が大丈夫なんだか……。
でもあやすような優しい声は、心の奥まで染み入るようで、なんだか心地良い。
尖った感情が、丸くしおれてゆく。

「あ……そうか……」

美咲は吐息のように力なく言った。
何が大丈夫か、わかった。

「わかってくれる人、ここにいた……」

誰もわかってくれない日々はもう終わったんだ。
私はもう、孤独ではない――



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