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震災から11年目の世界に思うこと

東日本大震災から11年。
昨年他界した父も、あの日、津波に巻き込まれた者のひとりだった。

幸いにも命までは持っていかれず、ケガはしたものの、翌朝無事戻ってくることができた。あのとき父を一晩泊め、家まで送ってくれた方々には、感謝しかない。

  *

岩手県南の内陸に住んでいる父はあの日、外出していた。口数少なく、コミュニケーションを面倒くさがる父だったから、母が「どこさ行くの?」と聞いても、ろくに答えずに出かけてしまった。

私は当時まだ嫁をしていたので、実家にはいない。祖母も存命だったが、湯治へ出かけていた。

そして襲う、大地震。
内陸だから津波の被害はないものの、何度も何度も来る山鳴りと揺れに、落ち着くことはない。

停電にもなったから、日が落ちると田舎のだだっ広い家は、闇の深さを増す。母は茶の間でロウソクの火を見つめながら、たったひとりで父の帰りを待った。

そして夜10時をまわった頃。
母は父の死を覚悟したという。

  *

同じ頃、私は嫁ぎ先で、普段着のまま布団に潜り込んでいた。3月の岩手である。停電で寒すぎるのと余震が怖すぎるのとで、とてもじゃないが寝間着になんて着替えられなかった。

ガタガタと震え、電池の残量を気にしながらラジオをつけると――

『高田が壊滅状態!
津波で高田は壊滅状態です!
街が波に消えました!
高田! 壊滅状態!』

暗い部屋の中に、鬼気迫った叫び声が響いた。飛び交う大勢の悲鳴。轟音のように聞こえるこれは、風の音か、海からの音か、山鳴りなのか。

そんなことを思っていると、今度は子供の声が聞こえた。

『どこに逃げたらお姉ちゃんに会えるのぉっ?』

――泣いている。
とても聞いていられない。
ラジオを切って、布団の中で震える。

このとき聞いた声が、11年経った今でも忘れられない。

  *

当時の私の記録を見ると――地元NTTがダメージ受けたのか、電話をかけることができない、「受け」はできる、とある。停電中なので、ケータイの充電もできない。

停電は11日から14日のたしか夕方まで続いた。いつ復旧するかまったくわからないまま、「10分だけ」と決めて車のエンジンをかける。その間にケータイの充電をし、カーナビ画面をテレビに切り替え、情報を得る。

同じ町内に住む実家の母も、固定電話に関しては同じ状況だったと思われる。

だがこの時代、町内のほとんどの家庭には、固定電話が2台あった。通常の固定電話と、「有線」。「有線」とは、町内専用のかけ放題固定電話である。

月額固定料金で、さほど高くはない。朝やお昼に放送があり、町内の情報を流してくれるローカルラジオのような存在。葬儀のお知らせや、運動会当日の朝に決行か中止かの判断も聞けるので、大変に重宝していた電話機であるが、残念ながらその後廃止となってしまった。

その後メールやラジオが代わりを務めてきたが、有線がないのはなかなかに不便である。火事のときなど屋外放送もされるが、何を言っているのか聞き取れない。

(goo辞書より引用)
ゆうせんほうそう‐でんわ〔イウセンハウソウ‐〕【有線放送電話】 
有線ラジオ放送用の有線電気通信設備を用いて他人の通信を媒介する電話・放送設備。有線放送電話法に基づいて、昭和30~40年代に農山漁村などで、日本電信電話公社(現NTT)の一般加入電話の代替として設置された。地域内での全戸一斉放送や屋外放送なども同じ設備で行われる。昭和60年代以降、電気通信事業の自由化、一般加入電話・携帯電話の普及などに伴い、有線放送電話業務を行う施設数は大幅に減少。平成23年(2011)に有線放送電話法が廃止され、新規設置はできなくなった。有線電話。

この有線が、12日の朝、かろうじて繋がる。母からの
「お父さん、帰ってこないのよ……」
という電話を受け、私は実家へすっ飛んでいった。

まさかそんな、いやいや、お父さんのことだもの、調子こいてちょっと帰り遅くなったとかじゃないの? などと思いつつも、だんだんと不安と鳥肌が強くなってくる。

私が実家に着くなり聞こえてきたのは、母の怒鳴り声。
「あんだ! あと10分遅かったら本家と警察に連絡してたとこだよ!」
幸い、父は無事に帰宅していた。一晩お世話になったお宅で貸してくれた服を着て。

――軽トラックを運転していた父は、迫りくる津波の第一波に車を捨てて逃げたという。父の前にいた紫のワゴンに乗った若い女性は、そのまま車の中でケータイを耳に当てていたらしい。動揺したのか、あきらめて誰かに別れを告げていたのか。

電柱にしがみついた父を、津波が襲った。首まで浸かったらしい。父の太ももは、このとき流れてきた木材で負傷していた。

「ちょうど左右両方がら来た水がぶつかったがら、俺はその場に留まれだのよ。これが片側がら来てだら、流されでだのっしゃ」

母が席を外したときを見計らって、父が私に説明してくれた。母がヒステリックに怒鳴ることは、その後長いこと続いた。母もそれだけ心細かったのだ。

紫のワゴンに乗った女性は、そのまま流されてしまったらしい。

  *

父は昨年――2021年春に亡くなった。
ちょうど震災から10年である。

震災のとき、父が助かったのは本当に運が良かっただけだと思う。紫のワゴンの女性と、状況の差は紙一重以下のこと。

あのとき運良く拾われた命を、10年経ってお返ししたようにも思えた。

毎年のように自然災害が起きている。今年もきっと日本のどこかで、世界のどこかで、台風やら竜巻やらの被害があるのだろう。

加えて、コロナでも世界中が大変な思いをしている。

震災から11年の今。
戦争が起きている。

「やんでも(嫌でも)災害で街や命が奪われるのに。なんでわざわざ街を壊して、命を奪うのか」
テレビを見ては、毎日母と嘆いている。

せっかく生きているのに。
せっかく生きのびてきたのに。

もったいない。
もったいないよ。本当に。

外交や歴史について、詳しくはない。
だけど、日本人だからわかることがある。
日本人だから言えることがある。

現に、広島と長崎の、記憶を引き継ぐ人たちが行動を起こしている。

何度も何度も大きな地震に襲われながら、思ったことがある。戦争体験者が戦争を語り継ぐように、私たちもきっと、この震災のことを、語り継がなければならないのだと。それが役目なのだろうと。

震災と戦争はもちろん違う。
だけど、被災する怖さ、悔しさ、不安、命の尊さは知っている。

震災と戦争は違う。
そう、違うんだよ。

地震や津波は天災だからどうにもならない。
自然は偉大で、人間は小さな存在だから。

そんな人間だから、時には過ちも起こす。
正義がぶつかって戦争にもなる。

だけど戦争は天災じゃない。人災だ。
だから止められるはずだし、止まれるはず。
止まれるはずなんだよ。

もったいないよ。
もったいないよ、本当に。


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