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嫌なことを知って、進むべき道を知る

書いて稼ぎたい、という欲というか志というかが強く芽生えていた頃。親友の協力もあり、自分で本を作って、即売会や地元商店街のイベントへ参加したり、店舗で委託販売をしてもらったりと、戸惑いながらも活動の幅を広げていった。

それはとても楽しく、興奮することであったが、良いことばかりでもなかった。幸いにも悪意を持った行為を受けたことはなく、むしろ皆さん好意的で、協力者に恵まれたと言える。

それでも私の中で、「なんか……なんか嫌だなぁ……」と感じたことがいくつかあった。少しでも多くの人に本を手に取ってもらい、知名度を上げたい、収入を増やしたい――という視点で見れば正しそうなことでも、「なんかなぁ……」と、うっすらモヤモヤしたものが私の中に湧いた。

そんな私に姉が言ったこと。

「その『なんか』っていうのが、あなたにとって譲れないことなんだよ。何が嫌なのかがわかれば、あなたの進むべき道が見えてくると思うよ」

  *

地元で委託販売をしたときの売り子さんは、積極的にお客さんと会話して、作品を紹介してくれる方だった。だけどよくよく知ると、紹介しているのは作品そのものではなく、作品を書いた人――つまり私の素性だった。

「この小説書いたの、あそこのお嫁さんなの」
「前に〇〇やってた人で」
「実家はたしか△△で」

それは、個人情報だ。
そしてそれは、作品には一切関係ないこと。
田舎の悪いところが出たな、と思った。

地元で活動することを決めたとき、ある程度は覚悟していた。その売り子さんもただただ一生懸命で、もちろん悪意はない。だけど個人情報ダダモレさせている自覚がないというのは、いかがなものか。

そしてそれ以上に、私が不快だと受け取ったことがある。

作品ではなく作者の素性をダダモレさせて、結果それで本を買ってもらった場合。――それって「私の作品に」じゃなく、「私の素性に」お金を払ったのではないか? つまり、「近所の人が作ったものだから。断るのもなんだし。じゃあ1つ買っておこうか」っていう、ご祝儀。

そんな理由で買ってほしくない。
そんな理由で買わせないでほしい。
なんのための筆名だ。
こんな買われ方、買わせ方は、嫌だ。

この件でわかった、私の譲れない大切なこと。

作品だけを見てほしい。
作者じゃなくて。

私って、「売れるならなんでもいい」っていう性格ではないんだな、ということをまずは自覚した。

  *

次に経験した「なんか……」は、またしても私の素性に触れること。それと、読者との付き合い方についてだった。

とある同人誌即売会へ参加したとき。新聞社が参加者数名のインタビュー記事を掲載した。その記事は即売会の運営からもTwitterで紹介された。それにより当時私の小説を読んでくれていた方がその記事を見たようで、TwitterのDMから「これはあなたたちか」と質問してきた。

私は親友とも活動していて、インタビュー記事の内容は、たしかに私たちの状況によく似ていた。質問してきたその方は、当時よく私たちを応援してくれていたから、記事を見て、あの二人に違いない、と喜んでくれたのだと思う。

だけど「これはあなたたちか」と質問する前に、ちょっと考えてほしかった。

私は名前に関して、「高橋和珪」という筆名しか表に出していない。ハンドメイド作家でありコスプレイヤーである親友も、活動名で参加している。

そんな私たちに、別の名前で掲載されている記事を指して、「これはあなたたちか」と尋ねる。それは――人にもよるかもしれないが――してはいけない質問ではないだろうか。

掲載された名前が本名ならば、「これはあなたたちの本名か」と個人情報の確認を取っていることになる。

そうなんです新聞に載っちゃったー!
とオープンに喜ぶ人もいる。

残念ながら私たちじゃないんですー!
とオープンに否定する人もいる。

だけど、そうじゃない人もいる。
私だ。

その方にとっては、私が個人情報に触れる話題に嫌悪するなんて、知るよしもないことではある。だとしても。今のご時世、個人情報についてはもう少し敏感になって然るべきだろう。

「違います」と突っぱねたかったが、この件に関して「違う」とも「そうです」とも、一切言いたくなかった。なぜなら、「違う」と言うこと自体も、個人情報へのヒントになるからだ。

だから私はどちらにも偏らない言い方を必死に考え、「ご想像にお任せします」とだけ答えたのだが、きっとその方は私たちのことに違いないと思ったであろう。だったらやっぱり、「似てるけど違います」って言った方が楽だったかもしれない。

その後しばらく、私は悶々と悩み続けた。

  *

私はなぜこんなにも、個人情報に関わることに悩み、嫌な感情を抱くのか。そりゃ個人情報に関わることだからに決まっているのだが。

きっと書くこと創作することが、私にとって神聖な行為だから、だと思う。筆名は言わば、巫女装束のようなもの。それをまとって心をなぞり、ふさわしい言葉をすくい上げ、綴る。

だから作品以外のこと、個人情報に触れるようなことは、巫女装束を無理やり脱がされるようなものなのだ。

こんなふうに、いちいち深刻に考える私の性格は、だいぶ重めであろうとは自覚している。

いつもズバッと返事が来る姉に、この件について相談すると、
「そもそも一人一人にいちいち返事なんかしなくていいんじゃないの? だってアイドルだって、ファンレターくれた人全員に返事書かないでしょ。ていうか読者が作家さんにDMで直接話しかけるってのもどうかと思うし。無視していいと思うけど」
ズバッと強めの返事が来た。

だけど私は、アイドルでもなければ超人気作家でもない。何万人もフォロワーを抱えて、日々たくさんのコメントが届く存在であれば、コメントに反応しないことも許されるだろう。だけどコジンマリ規模の私では、反応しないことはかえって目立ってしまう。

「だったら、やることはひとつよ。とにかく書く! 書いてファンが増えれば、その一人に振り回されてる悩みは消える。むしろファン同士で注意してくれる」

時間はかかる方法だが、納得である。ただ、人数が増えたら、厄介な人も同じだけ増えるとは思うが。――これにも姉は、ズバッと答えた。

「メジャーデビューするとか、人気が出るってのは、つまりそういうことなのよ。好意的な人だけが増えるんじゃない。ファン、アンチ、どっちでもない、そもそも知らない、ていう人たちをバランスよく配合しながら大きくなっていくのよ。心配すべきは、そのバランスが極端に崩れたときね」

「なるほど」
「とりあえずあなたは、まだそこを悩む段階では全然ないので」
「はいすみません」

今回のことは、今以上に読者が増えたときのプチシミュレーション、社会勉強だったと思おう。

今回のことや、これまでに経験したSNSやら販売やらで、わかったことがある。

私は、個人対応に、むいていない。
悩みすぎて時間が取られる。

  *

その後、まずは委託販売や即売会から一旦手を引き、誰かと関わることから距離をおいた。元々やっていたオンラインでの個人活動に戻ったわけだが、決してふりだしに戻ったわけではない。経験値は増えた。

Twitterでの発信の仕方も整理した。日常を発信するのはやめた。これもうっすら「なんか違う」と思っていたことだった。

「なんか」を考えるきっかけをくれた姉には感謝している。おかげで私にとって嫌なこと、譲れないことは何かを自覚できた。

そういや、牡牛座さんは基本的に秘密主義、少数の特定の人にしか心を開かないって何かに書いてあったのを今さらながら思い出した。なるほど、こういうことか。

やはり私は「ド牡牛座」か。ならばそういうものだと受け入れていこう。秘密主義ってことにしてしまえ。

全員にいい顔しなくていい。
来るもの拒んだっていい。
人付き合いは、選んでいい。
本末転倒なところで、悩まないように。

遠回りに思えても、数字は考えるな。
納得できるものだけを書いていけ。
数字は後からついてくる。

書くことにおいて私が意識すべきことは、自分の心をうまくなぞれたかどうか。
その一点だけでいい。
その一点だけでいいんだよ。



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