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どっちでも、よくないこと 〜映画「さかなのこ」に寄せて〜

のんの映画「さかなのこ」を見た。
公開から1ヶ月。忙しいのもあったけど、何となく機会を逃していた。
ファンだから、観れば満足することはわかっていたし、さかなクンの人生を、のんが演じる。それだけである種の「歩留まり」は確保されている感もある。だからこそ何となく「想定される範囲」の感動かもなと、それも微妙に機会を逃す理由にもなっていた。

「男か、女かは、どっちでもいい」

映画は、そんな宣言で始まる。
黒バックに書かれた言葉はもちろん、さかなクンを女性であるのんが演じることを意識したもの。
どっちでもいい、という言葉は逆に見るものに「そのこと」を強く意識させる。シンプルだけど、複雑な仕掛け。それは監督が作品にハードルを設定するような行為でもあり、あるいはそのハードルを越える事ができる、と確信しての行為とも考えられる。

さかなクン本人を主人公を導く存在(ギョギョおじさん)として登場させる事も含めて、監督は「好きなものだけを追いかけて生きたっていい」的なシンプルなメッセージを、少しだけ複雑な構造(メタ認知的な)にくるんで届けようとしている。(さかなクンが、さかなクンによって導かれるって?)

映画を見終わって少し経つ。
のんの映画ではよくある事だけど、何気ないシーンで涙がにじむ事があった。どんなシーンだったかは思い出せない。
「あぁ、こんな風に生きたかった」「こんな風に生きていた時が、自分にもあった」そんな気持ちがふいに胸をつく。

でも一番印象に残ったのは、のんのシーンではない。
それは父親のシーン。大好きなタコをつかまえた幼いミー坊の、そのタコを取り上げて、口から内臓を引き摺り出し、地面に叩きつけて、食べれるようにしてしまう父親のシーンだ。

どちらかと言えば「常識人」サイドとして描かれる父親が狂気を曝け出すようにタコを地面に叩きつける姿、物語的には重要ではないかもしれないけれど、強烈な印象を残した。父親の中にある「さかなクン」的な何か。

監督も早い段階でキャスティングを決めていたと語っているが、まぁそれはそうだろうなと思う。好きな事に殉じて生きるちょっと「普通じゃない」存在。この役は、のんにしかできない。そう納得させてしまうだけの存在感と説得力を彼女はすでに獲得している。

「ribbon」では周囲との軋轢や違和感に苛立つ主人公を演じたけれど、現実の彼女はもはやそんな場所にはいない。
芸能界の矛盾に押しつぶされそうになりながら、それを跳ねのけようと苦闘していた時期を越え、もはや誰も彼女の存在や価値を無視する事はできない場所にまで彼女は来ている。それは途轍もない事のように思える。
「男か、女かは、どっちでもいい」その言葉は彼女にこそふさわしい。

そして映画のラスト、ミー坊はかつて自らを魚の世界に誘った「ギョギョおじさん」となり、子どもたちの前に立つ。
ミー坊が走ると、子どもたちが追いかけていく。まるでハーメルンの笛吹き男のように。そして、それは「普通の人」の側から見れば少し恐ろしい風景にも見えた。

だって「好きなこと」を追いかける人生の先には何も保証されていないから。夢中になって崖から落ちてしまう事だってある事を「普通」の僕らは知っている。そしてその「普通」と「普通でない」ものの境界に監督はこだわる。

ミー坊が好きなように生きる事を肯定してくれた優しい母親だって、普通の「寛容な母親」なだけではなく、どこか狂気を感じさせる演出を監督は施す。高校生のシーン。何の説明も無しに父親と兄は「いなくなっている」

タコの内臓を引っ張り出して地面に叩きつけた父親も、「勉強ができない子がいたっていいじゃないですか」と座った目で訴える母親も、普通だけど、どこか普通じゃない。

「普通って何?よくわからない」そんな台詞もあった。それはよくある「普通に生きなくたっていい」とか「世の中の当たり前を疑う」といったメッセージじゃない。
本当にさかなクンものんも(もしかしたら監督も)わからないのではないか、と。誰も「普通」なんかじゃない。誰も普通ではない。ただただ「そう生きざるを得ない」だけなのだ、と。

いくつかの違和感を作品に仕込んだ監督。映画自体の長さもそうだった。
139分。少し不思議に思った。このシンプル(に見える)物語に、そんなにたくさんの時間がいるのかな、と。
テンポを上げようと思えば、いくらでも上げる事はできる映画だった。だからこそ監督にとってはこの「長さ」に意味があるのだとも感じた。
確かにそうだ。僕は映画を見ながら、ずっと色々な事を考えていた。

決して「マジョリティの普通」を否定して「みんな、さかなクンのように、のんのように生きようよ」と無邪気に訴える映画ではない。
むしろ「さかなクンとして生きる事」を見ている人に体感させ、
「さかなクン/のん」と自分自身との「距離」を考える時間だったように思う。

「男か、女かは、どっちでもいい」
そうだ、そんな事はどうだっていい。
でも、それなら何だろう。

どうでもよくないことって、何だろう?

(↓こちらは前作「ribbon」の感想です)

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