見出し画像

プロフェッショナル仕事の流儀「宮﨑駿」感想記「わかることと、わからないこと」

わかりにくい映画についてのわかりやすい番組だった。決して不満ではない。一瞬たりとも目を離さずに見終えた。そんな番組はそんなにない。
番組を見ながら、色々なことをグルグルと考え続けた。そんな時間も嫌いではない。
満足もあり、不満もある。不満というか、納得できない気持ち、というのだろうか。うまく書けるかわからないけれど、何かを書いてみたいと思う。そんな気持ちになる番組も久しぶりだから。

番組は「君たちはどう生きるか」ができあがるまでの2399日。あの、極めてわかりづらい映画のメイキング。一切の前宣伝もあらすじも無く全国の映画館で上映するという、とんでもない挑戦。
コスパやタイパなんて言葉の対極にあるかのような、不親切な映画。それは、見るものの解釈の自由を最大限にまで広げようという宮﨑とジブリの挑戦だと僕は捉えていて、とても素晴らしいもののように感じてきた。

映画を見た後、宮﨑駿とジブリの「意図」を想像して、文章を書いた。


「プロフェッショナル」の序盤で、あの映画の「種明かし」がされる。
主人公は宮﨑で、アオサギが鈴木敏夫で、大叔父が高畑勲だった、と。
そしてその「筋」にそって、宮﨑の高畑に対する複雑な感情が印象的なシーンや言葉と共に描かれる。
それは、とてもわかりやすかった。でも、それは何かを狭めているように僕には感じられた。本当にそれだけなの、と。

そして、なぜ?と思った。
もし本当にそうなら、宮崎駿とジブリはなぜあれほど前情報を制限して公開に臨んだのか。わからないことで自由に広がっていた物語世界は、灯りを照らされた洞窟のように、神秘性を失ったように思った。
あれは時流に反する戦いではなくて、極めて高度なプロモーションだったということなのか。
ファンや視聴者の勝手な期待が裏切られただけなのかもしれないけれど。

優れたドキュメンタリーとは何か?
それは、知らなかった事実を伝えるもの。有名人の知られざる素顔を明らかにするもの。あるいは「わからなかったもの」を、「わからせてくれる」もの。そういった答えはあるだろう。「プロフェッショナル」に勢いを与えたイチローと宮﨑駿のドキュメンタリー。それは、まさにそういったものだったように思う。

当時、スポーツ記者の取材には殆ど応えなかったメジャーリーガー・イチローの自宅にカメラが入る。
するとそこには、毎日カレーライスしか食べないという「誰も知らない」イチローがいる。独自の哲学を饒舌に語る姿。
「ルーティン」という概念が、一般的になったのには、イチローのあのドキュメンタリーがあったからのように思う。

それは宮﨑駿の作品も同じだ。押しも押されもせぬ巨匠である宮崎駿が見せる、苛立ち。作品に対する異常なまでのこだわり。そして息子に対する複雑な感情。

イチローも宮﨑駿も、僕らと同じひとりの人間であるという親近感。それを踏まえてやはり「常人とは違う」凄みを提示する。
そんな構造を、形を変えて繰り返すことで「プロフェッショナル」は「情熱大陸」と共にある種の王道をヒューマン・ドキュメンタリーに提示してきた。

そして「誰も密着できない人に、密着する」という番組最大の売りは、ある種の特権性を持って作用してきた。
一時期のイチローが、最近は毎日カレーは食べてないことを繰り返していたように「プロフェッショナル」という番組は、その人のイメージを強力に固定する。良くも悪くも。そう、それは本当に良くも悪くも、である。
本来多様な人間性に対する「ひとつの解釈」であるべき番組が、太すぎる1本の線になってしまうこと。その「良くも悪くも」が、今回の番組でも現れていた。

(僕が書いていることは、ある種の言いがかりのような気がする)

(パンフレットとかインタビューですでに言及された事だったかも)

(でも、あの映画の「わからなさ」の魅力が少しだけ失われてしまったことを僕はとても残念に思っている)

(カットバックの多用も気になった。同じ手法のカットバックを繰り返すこと。それが意図だったのか。手法に酔っていたのか。僕には後者な気がした)

書いてきて気が付いたことがある。
ロッキング・オンでのインタビューなんかで、宮﨑駿が社会状況に対する違和感を表明する姿勢に共感してきた自分は「君たちはどう生きるか」が宮崎駿なりの「今の時代」に対する違和感の表明であることを期待していたんだと。

その中で、極めて個人的な愛憎(のみ)を軸にメイキングストーリーを構築た「プロフェッショナル」に納得できなかったのかもしれない。

だからこれは、ひとりの視聴者による映画と番組に対する感想文であって、全然的外れかもしれないけれど書いてしまったからアップしてみます笑。ま

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?