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父が生きた時間の、その先の時間。

先日、久しぶりに父を知っている人に会いました。

父は、岡山市内の病院でソーシャルワーカーとして働いていましたが、当時、まだソーシャルワーカーという仕事の人は少なく、職名も「ケースワーカー」と呼ばれていました。そのケースワーカーの父と若い頃に一緒に仕事をしていた、「石原さんにお世話になったんです」という言葉を自分に向けられたものでなく父に向けられるものとして聞くのはなんだか不思議な感覚でもありました。

お会いしたというか、わかったのは、SDGsに関するイベントで、その後の懇親会(本文と関係ないですが、バングラディシュやネパールで支援活動を行っているNGO・シャプラニールさんのお話で学びの多い会でした)でカレーを食べながら話してて分かりました。前にも、あるNPOのリーダーさんへインタビューをしてて、終わり際にぽろっと父の話をしたら、一緒に働かれたことがある方だったりして、よく考えれば、父と遠からずな仕事をしているのだから、父を知っている人と会うのは当然と言えば当然で、これまでも父を知る人にお会いしているのかもしれません。

父がその方々とケースワーカーとして動いていたころ。
きっと、まだまだ理解も進んでおらず、支援の仕組みも整っていなかった頃で、苦労も多かったかと思いますし、ソーシャルワーカーという仕事もまだまだ社会に理解されていなかったと思います。その中で足りない資源を開発していくべく、家の契約が難しい精神障害のある利用者さんの寮づくりをしたり、また、そこから利用者さんがいなくなって夜中に探しにったり、就職先を探して行ってアルバイトで働く支援をしたり・・・。
父と一緒に働いたことがあったお二人はどちらも父との仕事のことを黎明期のチャレンジに満ちた思い出として、その時の同志としての父について教えてくれました。

父がこのソーシャルワーカーという仕事を誇りに思っていることは、僕も会話をする中でいつも感じていました。テレビでソーシャルワーカーが主役のドラマが放映されたことがあり、その時も理解が進むと喜んでいました。思い返せば、小学生や中学生の頃、時々現場についていったり、お手伝いする中で、「石原さんのおかげだ」とか「石原さんによくしてもらってる」と、その頃は言ってもらっていましたし、僕も、子どもながらそれを誇りに思っていました。不思議な感覚はそれを数10年ぶりに聞いたからかもしれません。

僕は今の自分の仕事を、父とはまた少し違う領域や範囲でのソーシャルワーカーだと思っています。社会の資源を編集して仕組みを作り出すことに重きを置いているので、仕組み屋や社会の編集者、みたいな名乗り方をさせていただくこともあります。
特にここ数年は福祉的な分野での取り組みも増え、あらためて考えると父の影響を感じますし、だから父がお世話になった方とお会いする機会も増えてきたのだと思います。

高校からの進路も父の趣味の面での影響から森林や林業の分野に進みましたが、今、そこから離れたと思ったらソーシャルワーカーの領域に近づいてしまっている。なんだか少し悔しくもありますが(笑)、やはり、自分は父の子なんだなと思います。(でも、どちらの領域も関われる僕の仕事を父もうらやましく感じるかもしれません)

そんな父は、職場で倒れて緊急入院し、容体が回復したものの、その後、手術までの入院中(しかも年始に)に容体が急変して亡くなりました。

父が50歳。僕は27歳の時でした。

そのことをきっかけに高校から家を出ていた僕は岡山に戻り、今の仕事をはじめました。
その僕も、後4年で父の年齢に追いつく歳になりました。

つまり、4年後から先は父が生きれなかった時間になります。
ずっと意識していた年齢がいよいよ近づいてきて、その先の時間をどう使うか、昨年から考えることが増えてきました。

父が動いていた時より制度も社会資源も整ったと思います。
一方で、日々、様々な現場のお話を聞き、またその現場と離れた仕事や暮らしの人の話も聞く中で、社会が見えない壁で二つの世界に分かれていることを感じることが増えてきました。
その壁を取り除くことは難しいけれど、そこに通路になる小さな穴をあけることはできるかもしれない。そんなことを最近、考えています。
これまで取り組んできたことを、これからに合わせて変化させて仲間たちに託しつつ、自分の役割を変えていく。できれば50歳までに役割を交代していきたいと考えています。

今年、中間支援組織について考える研究会に参加をさせていただき、そこで考える中で、NPO(NPO法)ができたから中間支援組織があるんじゃない、ということを再認識しました。
僕らは、まちと、むらと、ともにある。そこに暮らす、様々な暮らしや商いをする人と共にあるんだと。

父がそうであったように、様々な人が一緒に暮らし、まちむらを形成する中で、緩急様々な変化が起きていき、その中で問題が発生する。そこで解決に取り組む人が出た際に、一歩下がってみながら、そこをつないでいく人が必要で、僕らはそんな存在として機能することを目指してきたんだと。
大きく言えば坂本龍馬のような動きだったり、若き頃の父と仲間たちの動きを支えていくような。

そうした気づきも噛みしめながら、あらためて僕らのまちにもっと深く、もっと広く、できることをしていきたい。
50歳になったときに、父に自信をもってそこからの役割、挑戦を伝えられるように過ごしていきたいと思います。

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