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和牛とWAGYUとキムチと納豆

 アメリカでは今、和牛がブームだ。
 従来、アメリカでは歯ごたえのある、赤身のステーキが好まれていた。安い店で食べたら靴底なんじゃなかろうかと思うくらいだ。
 噛みしめるとパリパリと細い筋が音を立て、噛み切れない肉を噛んでいるうちに牛肉の旨みが口中に充満する。
 脂身に旨みを求める日本の肉料理とはかなり違うが、慣れるとこれがやめられなくなる。
 むしろ、日本の肉料理が脂っぽくて鼻につくようになるほどだ。
 ところが、だ。
 最近ではそのアメリカで脂身満載、脂肪が大理石のようなマーブル模様を描いている日本風の牛肉が人気だという。日本から輸入するだけでは飽き足らず、日本に酪農関係者が研修に来て、和牛の肥育の仕方を学んだ後にアメリカで日本風の牛肉の生産を始めているとも聞く。
 これは一つにはアメリカ人の味覚が変わってきたこともあるのだろう。高齢者が増えて、肉質が柔らかい日本風の牛肉が好まれているようだ。
 確かに口に含んだだけでほどける日本風の牛肉の方が、靴底のような純アメリカ風のステーキよりもお年寄りには好まれるのかも知れない。
 シアトルでナンバーワンのステーキハウス、メトロポリタングリルもそうした和牛に力を入れている店の一つだ。
 店の作りはビクトリア朝の造作を取り入れたヨーロッパ風、天井からはアールデコ風のシャンデリアが下がっている。
 ウェイターは全員ポロシャツではなく、昔ながらの白いウェイタースーツ姿だ。ウェイトレスはフレンチメイド調。だが、どちらもお年寄りばかりのため、いやらしい感じはない。
 ボックスシートは馬蹄型、これもクラシックな作りだ。
 そんなクラシックな作りのステーキハウスの入り口には妙に場違いな、ガラスとステンレスでできた巨大な冷蔵庫が置かれていた。
 中に鎮座しているのは日本風にさらしで巻かれた大きな牛肉の塊だ。
 塊の前には『山形牛』と漢字と英語で書かれた木製の小さな立札が置かれていた。
 よく見てみれば、冷蔵庫の横には日本でもよく見かける『山形牛』の大きな木札も置かれている。
 どうやらシアトルでは松坂牛ではなく、山形牛が幅を利かせているらしい。

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「ひさしぶりだね。十年ぶりかな?」
 僕はシアトルを訪れた折に、アメリカで駐在していた事務所で現地採用されていた韓国系アメリカ人のSと会っていた。
 彼は僕の会社を辞めたのちにシアトルに移動し、しばらく音声認識技術大手のセールス・ディレクターを務めて今はスタートアップのセールス・ディレクターをしているのだという。
「本当に! 元気だったかい」
 大きな動作で握手をする。だが、手を握る力は普通だった。
 Sは十年分歳を取り、髪が減って皺が増えていた。そのせいなのだろうか。その穏やかな様子は不必要にエネルギッシュだったSにしてみれば大きな変化だ。
 Sを含め、韓国系の人は一概に元気で、猛烈に勢いがある。議論をすれば鼻が触れ合うんじゃないかってほどに迫ってくるし、声も大きい。飲みに出ればビールとウィスキーをちゃんぽんして完全に酩酊するまで飲んだということを自慢する(ちなみに酒を飲んで酩酊したなどという事は、アメリカではかなり軽蔑の対象となる)。
 だが、十歳年をとったSはどこか落ち着いて、普通の雰囲気の大人のアメリカ人になっていた。
「何を食べる? 和牛が売りみたいだよ」
 僕はメニューを差し出した。
「いやあ、和牛はいいよ。あれは脂っぽくてさあ。あ、いや、日本の味覚を馬鹿にしている訳ではないんだよ。歳をとったら脂肪がきつくなってきてね」
「僕はせっかくだから食べてみようかな。日本でも和牛なんて食べないんだけどね。アメリカの和牛には少し興味がある」
「どうぞどうぞ。アメリカの牛は美味しいからね。和牛もなかなかだと聞いているよ」
 赤ワインのグラスを片手にSがニコニコと笑う。
「前菜はどうする?」
「なんでも。好きなものを頼むといい」
「ならばシアトルらしく、オイスターにしようか」
「ああ、いいね」
 僕は指を立ててウェイトレスを呼ぶと、シアトル名物のクマモト・オイスターを六個とシーザーサラダ、それに二人の分のステーキをオーダーした。
 ちなみに、クマモト・オイスターは日本から入植したクマモトさんが養殖を始めたオイスターの銘柄だ。別に熊本でとれたオイスターという訳ではない。小粒だが、味が濃厚でとてもおいしい。
 二人ともステーキの焼き方はミディアム・レアだ。牛肉を食べるならミディアム・レアに限る。
 ステーキが焼きあがるのを待つ間、ゆっくりとワインとオイスターを楽しみ、よもやま話に花を咲かせる。
 ひとしきり旧友たちの消息を確認したら、話題が尽きた。
 ステーキはまだ焼きあがらないらしい。
 アメリカのステーキは日本のステーキとは少し異なり、蓋をしてじっくりと蒸し焼きにする。そうは言っても焼き上げるのに十分はかからないだろうから、僕たちの会話が弾んでいるのを見てウェイトレスがタイミングを計っているのだろう。
 仕方がないので、僕は少し刺激的な話題をSにぶつけてみることにした。
「そういえば最近、日本と韓国は仲が悪いようだよ。韓国の大統領やメディアがやたらと日本を攻撃してる。おかげで日本人もめっきり韓国が嫌いになっちゃったみたいだ」
「嫌悪の連鎖だね。知っているよ」
 Sは顔を顰めた。
「だがね、」
 と彼は人差し指を立てて見せた。
「あれは作られた情報だ。虚像だよ。マトモな韓国人ならあんなことは言わない」
 知っているかい? とSは僕の顔を覗き込んだ。
「今、渦中にあるのは例の慰安婦だか売春婦だかの話じゃないか。でも、ちゃんとした教育を受けた韓国人なら誰でも日本が戦後に補償金を韓国政府に払ったことを知っている。そして、政府がそれを分配しないで使っちゃったこともね。それを若い世代に知られたくないから大騒ぎしてるのさ」
 Sはシニカルに笑った。
「俺は、ああいう欺瞞が大嫌いだ。だからアメリカ人になったんだよ。それよりも、日本ももう少し主張すればいいんだよ。黙ってるからつけあがるんだ。ああいう態度も日本の美徳だから俺は好きだけど、誤解を招くこともある」
 韓国系のSにそんなことを言われるのは意外だった。
 やがて、ステーキが運ばれてきた。
 どちらも鉄皿に乗せられ、冷めないように工夫されている。僕の付け合わせはいつものようにフレンチフライ、Sの付け合わせはガーリック・マッシュポテトだった。
「やあ、うまそうじゃないか」
「半分ずつにするかい?」
 僕はSに提案した。
「いいのかい?」
「両方楽しめたほうがいいだろ?」
「じゃあ、遠慮なく」
 僕たちは自分のステーキを半分にすると、各々交換した。
「和牛ってのは、脂っぽいな」
 Sが顔を顰める。
「そうだね。僕も久しぶりに食べたけど、脂が多すぎる気はする」
 柔らかいステーキは口に含むとほろりとほどけて、まるで液体のように消えていった。アメリカのステーキとは大違いだ。
 だが、焼き方がアメリカ風なため、牛の香りは濃厚な気がする。
「なんで日本人はこんなに脂が好きなんだ?」
「さあねえ。日本人が肉を食べ始めたのはたかだか百年程度の話だから、過去の摂取不足分を埋めようとしてるのかもな」
「日本人はカルビも好きだものな。俺はあまりカルビも食べないよ。どちらかというと赤身のロースを食べることの方が多いね」
「キムチとかはどう?」
「キムチもま、食べるけどね。毎日は食べないなあ」
「自分のうちで作るの?」
「まさか」
 Sは両手を広げた。
「日本人だって納豆を自宅では作らないだろう? 同じ事さ、店で買う。どうも僕たちは隣の国に住んでいたっていうのにお互い知らないことが多すぎるね」
 Sが呆れた様に言う。
「ま、人のことは言えないか。俺がさっき話した政府が日本からの補償金を盗んだ話さ、あれ、俺は父から聞いたんだよ。学校では教えてくれない。俺は大切な話だと思ったから自分の子供達にもちゃんと教えているけど、ほかの人はどうなんだろうな。最近の若い世代は本当に知らないのかも知れない。本当に日本が補償金を払っていないって信じ込んでるかも知れないなあ」
 Sは不愉快そうに腕を組んだ。
「でも、おそらく似たようなことは日本でも行われているし、アメリカだって同じさ。州によっては進化論を否定しているからね。でも、そういうプロパガンダの犠牲者はいつも社会的弱者なんだ。お金がないからちゃんとした教育が受けられない。だから妙なプロパガンダを信じてしまう。恐ろしい事だよ」
「……」
 僕は黙ってステーキを口に運んだ。
 確かにそうだ。過去の知識は揮発する。誰かが伝えないと消えていく。
 和牛の技術は過去の研究の積み重ねで完成の域に到達したが、ならば社会的な成熟度はどうなのだろう? 大切な事を伝えないうちに亡くなっていく人はたくさんいるだろう。
「まあ、飯がまずくなる話はやめようや。世の中はなるようになるよ。きっと良くなる」
 僕よりも少し年上のSは慰めるように笑うとデザートメニューを開いた。
「何か甘いものを食べて口直ししようや」
「じゃあ、僕はアップルコブラーにする」
「俺はシャーベットだな。おい、ユズ・シャーベットなんてあるぞ。マッチャに続いてついにユズまでアメリカに来たか」
 薄いアメリカンコーヒーをガラスのマグで飲みながらデザートを片付ける。
 十年ぶりに食べるアメリカのデザートは相変わらずだった。甘ったるい、シナモンの良く効いた暖かいアップルパイの上にバニラアイスを乗せたアップルコブラーは僕の大好物だったが、脂っぽい和牛の後だと少しくどい気がする。
 そして、ぬるいコーヒーはなぜか少し苦い味がした。

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 さて、アメリカ風のステーキだが、これはちゃんとした器具があれば自宅でも焼くことができる。

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