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私はなぜ、ご飯粒を残さないのか

今回はなぜ、私はご飯粒の一粒までも残さずに食べようと思うのかについて考えてみようと思います。

なぜこんなことを考えるのかと言いますと、2週間後に参加予定の法政大学長岡ゼミが開催する”カフェゼミ”というオープンゼミでのテーマが「フードロスって何だろう」なので、今回は一足先に私なりのフードロスについて考えてみようと思います。

いつから残さず食べようとしてたのか

私は多分小学生ぐらいから、お茶碗にご飯粒が残らないように食べていた気がします。初めはうまくお箸が使えずに食べられず怒られた記憶もあります。どうしてもうまくつかめないとご飯粒が潰れてしまって、周りの大人たちのようにうまく食べれなかった気がします。
また、私がそれをできるようになった時、もちろん3つ下の妹はお茶碗をきれいに保ったままご飯を食べるということができなかったはずです。なぜなら、きれい食べれるようになった私はそれを馬鹿にしてたようなぼんやりとしたイメージがあるからです。

一人暮らしをし始めてからは、もったいないという気持ちよりもきれいに食べた方が洗い物が楽といった印象から残さずきれいに食べきることを意識していた気がします。同じ残さず食べるでも、環境によってなぜかは変わってきているのでしょうか。


なぜ食べきることに執着するのだろう

率直になぜ残すのがいけないのかはわからないですが、そういうものなのでしょう。私の場合、祖父母の影響が強い気がします。貧しい戦争の時代を生き残ってきた人にとっては、何かを粗末に残すということは許せないことだったのでしょう。私の祖父母も両親もそうやって残さないことを当たり前にしていました。したがって、私も当たり前にそれをやっています。

でも、なぜと聞かれるとわからなくなってしまいます。食べ物の貴重さを身に染みるほど体験したことなどない恵まれた日本という環境にありながら、たった米粒一つになぜ執着するのだろう。食べ物を無駄にしないようにするのだろう。

多分それは、環境の他に田舎で育ったと言いうことが大きいような気がします。実際に畑で好きな野菜を作って食べていました。小さい頃は、簡単にできるとうもろこしを植えるのが好きだった記憶があります。赤いとうもろこしのタネを巻いては毎日のように小学校が終わってからジョウロで水をあげて、今か今かと目が出るのを待ちました。

売っているものと比べたらとても美味しいとは言えないものができるのを知っているのに、なぜか毎年のようにタネを買ってと懇願して買ってもらった記憶がこう書いているうちに思い出されてきます。そして、育って不揃いな甘くもないとうもろこしを一つ残さず平らげるのです。

もしかしたら、私が食べていたのは物体としてのとうもろこしではなくて、身をもって知っているそこにかけた労力や思いなのかもしれません。自分でどれだけ大変かを知っているからこそ、その気持ちを無下にしたくないという思いから食べたのかもしれません。現にサーブされたものを全て残さず食べようとするのも、そこにかけられた思いや私の為に調理された命に何とか感謝をしたいという態度から残さず最後の最後まで食べるのかもしれません。


ではなぜ残してはいけないのだろう

私の場合一番は、命を無駄にしたくないという思いだろう。もとより、食べれない子どもたちが世界中にはたくさんいるや昔は食べれなかったなど知った話ではない。現に私の目の前には粒の揃った白米があるし、最低でも何か一品が隣にある。

それに、私が残さないことで誰かが食べれるわけではないからである。私ができるのは、スピリチュアルかもしれないが、私の為に死んだものたちへ全力で感謝を伝えるということだろう。それをしなくなった時、きっと私は人を思いやれない人になってしまうかもしれない。

稲も鳥も玉ねぎも、食べられるものたちも誰も望んで食べられているわけではない。玉ねぎなどなおのこと、食べようとすると猛烈に反撃をしてくるのである。涙目になりながらも、それを超える力で制していただくのだ残せるわけがない。

なぜ残してはいけないに対する私なりの答えは、現状では「動物に限らず命は粗末に扱うべきものではないと思っているから。」である。どこかしら日本独自の八百万の神々といった考え方が文化として染み付いているからかもしれない。

もっと、感情的に言うなれば、残すと罪悪感を抱くのでそれを回避してるだけとも言えるかもしれない。


でも、残す時もある

でも、残してしまう時がある。それは、アレルギーで食べれないものが出てきてしまった時だ。可能なら人に食べてもらったり、先に入れてもらわないようにはしている。今までフードロスなど興味がなかったが、無意識にロスが多い場所には近づかずそのようなものを避けている自分を見つけることができた。

押し付けるものではないと思っているので、あくまでも自らができる範囲での抵抗と主張を行っていたらしい。アレルギーは結構強い方なので、残すときは、ごちそうさまと呟く際にいつも「ごめんなさい」と心の中で思いをあげる。


できるだけ残さないために

家なら、作れる範囲、食べれる範囲のものしか買わない作らない。外なら、頼まない、食べれるものしかないお店にしか行かないのである。

最近はプチベジタリアンのような生活をしているので、ベジタリアン専門店などに好んでいくことも多い。専門店と言うと仰々しいが、宗教の関係上あまり動物を食べない食文化を持った異国籍料理店がほとんどであったりする。残してしまう要素とはなるべく関わらなければ、個人の範囲では無駄な残しはしないのである。

最初に述べた、洗い物が楽というのも一種の環境を気遣った食べるを通した活動と言えるかもしれないし、精神論であるが命を粗末にしないと言うマインドセットも精神世界の生命の関わり合いの中では良い活動と言えるかもしれない。



物心ついた頃から、作る大変さといただくありがたさを感じて、食べ物は残さずに生きてきた私にとって、フードロスはとても難しい問題である。当たり前が過ぎて、一周回って意味がわからないのである。でも、こういう風に考えるだけで少し社会と私が繋がった気がする。

インスタ映えの影響で食べずに捨てられたり、コンビニの催事用の廃棄などフードロスの問題は身の回りに多く存在するが、私のマインドセットで解決できるものはあるのだろうか。強いてやっている事を上げるなら、付け合わせのパセリやクレソンも食べ、スーパーでは手前から商品を取り、値下げされている食材を優先的に買っているぐらいかと思う。お金がないだけだが、立派な社会貢献な気がしてきた。

関係ないかもしれないが、水産資源を考え私は大好きなマグロとうなぎは、ずっと買ってないし食べていない。好きな物を絶っても、嫌いな物を残さないために食べる時も、私は食と向き合う時に常に幸せである。



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