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知の化石を掘るために

編集の時代に編纂することの意味を考えている私です。技術が発達するごとに、私達はアナログの価値を再認識できると思っています。編集ではなく編纂することについて考えてみたいと思います。

今回は、そう言うことで編集ではなく編纂(へんさん)する意味について考えてみたいと思います。異なったもの、散らばったものを束ね編んで集めて行く編集と、ありのままに思いの糸を算(かぞえ)て行く編纂にはどんな違いがあるのだろうか。


編纂とは?

編集と編纂とでは、どちらも編むみ足して行くというイメージがあります。現にどちらも”編”という感じが使われています。では、何が違うのかについて考える時漢字に着目して見るとその文字が持つ意味が見えてきます。

編集とは、編み集めるということで、
編纂とは、糸を算て編むということです。

バラバラの紙を束ねるのが編纂、その紙の向きを整えるのが編集というイメージです。


語りを堆積させる

私の対話のイメージは、堆積です。草木や生き物やチリや埃、雨に、太陽と様々な自然が地面に積もっていきます。これを対話に見立ててよくイメージするのですが、自然がある程度積もると、化石になったり、宝石になったり、石油になったりします。

対話の中での、化石や宝石や石油はなんなのだろうかと考えると様々なものが頭の中を行き来します。

化石は、美しくかっこいいんです。そして、かつての姿を私たちに想像させてくれます。これは、きっと各々の持っている価値観や哲学など揺るがないものに当てはまるのではないかと思います。

宝石は、澄んで輝きます。周りのものまで華やかに際立ててくれます。これはなんなのかよくわからないですが、きっといい思い出やセピアに焼けた記憶なのではないでしょうか。

石油は、役に立ちます。めっちゃ役にたちます。さながら、知識や経験がこれに当たるのではないでしょうか。私たちの生活になくてはならないものだし、バンバン掘れます。知の石油は無限かつ私たちにフレンドリーなのです。

など、対話によって積み重ねられたものはいつかきっと形や性質を変えて戻ってきます。積み重ねることにより、いつの間にか熱を持ち変化して行くのだと思います。しかし、この熱を感じることはできないし、いつ変化しているのかはわかりません。でも、積み重ねなければ起こり得ない反応です。


なぜ対話と編纂なのか

私が、なぜ対話を持ち出し、編纂を持ち出したのかそれは、どちらも有機・無機にかかわらず真摯に重ねて行くものだから。あえて、手を加えずに重ねて行く美しさがそこにはあると思います。

有機的なものは朽ちていきますが、無機的なものがその形を残してくれます。それが、さながら思いや感情を言葉にして編んでいく様子と同じように見えませんか。

言葉にすることで消えてしまうものを、なんとか表現しようと有機的なものを無機的なものでコーティングしてなんとか風化しないよう他者とギフトして行くのです。それが対話であると私は思います。

また、地中深くに息を殺して棲まわせていたいたものを、誰か協力して掘り起こすことこれも対話だと思います。

その誰かとは、人かもしれないし、ものかもしれないし、目に見えないものかもしれません。それらは、邪魔をしている硬い岩を不思議な力で砕いて道を開くのを助けてくれます。


知の化石を掘るために

その中でも私が掘るお手伝いをしたいが、化石。かっこいいですよね。私はトカゲを飼っているので、思い入れが強いのかもしれません。

その化石を掘るために私が用いるのが芸術と対話。これが一番私の化石と親和性が高い気がします。

私の化石は、自分の為に隣人の隣人を幸せにすることです。悪いことは伝わりやすく、良いことは伝わりにくい今だからこそ、自分を守るために周りから良くあって欲しいと思って今も書いてます。

でも、できるのは手伝うことだけ。あくまでも掘り当てるのは自分自身でしかありません。ですが、手伝うことは無限にできます。

その一つの方法として「新しい古本」を作りました。

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人から人へと伝わった跡が堆積し、徐々に他者へ語りかけてくるようになってきました。もし、行き詰まってしまったら無限にお手伝いします。思い入れの深い化石を掘り当てにいきましょう。



いつもと違った言葉で、いつもと同じことを書いてみました。全く使う頭が違うし、文章も違う。読んでくれる人は違うように感じるのかな。難しすぎて、テーマが編纂から外れてしまったが、これも真摯に思いを重ねた結果なのでそのままで良いのです。

こうやって今日も自分を積み重ねて行いきます。

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