作品が制作者の意図を越える

いつの間にか疲れていたらしく、ゆっくり休んだ私です。1日2回投稿は数日ぶりな気がします。余裕がなくなると更新頻度が下がることがわかりました。いい学びです。

今回は、作品が制作者の意図を超えることについて考えようと思います。国立大の大祭に知り合いの絵を見に行ったのですが、年内で一番楽しい鑑賞の時間でした。その際に、理屈ではなくて対話して作品が、作者の意図を超えることを感じましたので書いていきたいと思います。


なぜ越えなければならないのか

まず、なぜ作者の意図を解説を個人が越えていかなかればならないかについて考えてみたいと思います。無意識のうちに、作者の意図を、権威者の解説を越えることを良いこととする私がいますが、それがなぜかを言わないとただの押し付けですよね。

一つの私個人の考え方として、なぜ個人の解釈が作者の意図を越えていくべきかについて考えたいと思います。それについては、とても抽象的で言語化できない部分もあるかもしれませんが、それも揃えてできる範囲で一緒に考えてみましょう。

まず第一に「どうやってアートを見ればいいのかがわからない」ということを最近も聞かれましたが、わからない人がたくさんいると思います。それは、アートが高尚なものだと勝手に思われているからではないでしょうか。私はそう思います。

しかし、説明がそれだけでは足りませんし、納得できない人もいるでしょうから説得力のある先人の言葉を使って説明したいと思います。

美術館を訪れる観衆の多くは、美術作品を理解することに劣等感を持っている。美術がわからないという自身のなさや、専門的な知識がないので理解できないという内気、そして何よりも、美術は特別な才能を持った人たちによる特別な世界であるという偏見が、彼らの率直な感じ方や率直な考え方の正当化を妨げている。

「まなざしの共有」上野行一 監修,2001

これは、ニューヨークはMoMAで80年代中盤から90年代中盤までギャラリー・トークを担当し、対話型鑑賞の第一人者と言われているアメリア・アレナスの鑑賞の基礎にある考え方の一つです。

それでなくとも近代のアートは1848年のヨーロッパ各地で起こった革命により当時の絶対的権威者であった諸国の王や貴族、教会専用のものではなくなったと言われています。市民による市民のためのアートが誕生したのです。

そしてその系譜を受け継いだ現代のアートに関してもそれは前提となっているはずです。なのに、さも正解があるように思ってしまい、観る方法があるかのように多くの人が思い込んでいるのだと私は思います。もっと自由に観てもいいと思う。

そして、もとより開かれているアートというものを専門の知識や方法に乗っ取らないと鑑賞すること、楽しむことができないと思わせている何かがあるはずなのです。だからこそ、それを越えて本来のアートと私たちとの距離を取り戻さなければいけないと私は感じています。それが今私の感じているアートと私たちとの関係性の中の違和感ですね。

それこそ、アートは封建的な存在であるべきものではなくなったのだから人々の豊かさのためにも、そうした方がみんなにとって良いことじゃないのかな。

そして、これは人によって何を大切に思うかが変わってくると思います。少なくとも私は、作品の正解を探すよりもその先に自己を反映させた唯一無二の解釈を見つけ出すことが重要だと考えています。


体感した越える瞬間

長い前置きでしたが、それを経てやっと本題に入ります。

頭では分かっていたはずの解釈の自由さや、作者の意図以上のものを作品が超えた瞬間について書いていこうと思います。

これは、大学祭に行った時に知り合いの制作者と友人と私という三人と1つのものがたまたま一緒になった際に、いつもやっている鑑賞の問いかけを何気なくかけ始めたとこから始まりました。

制作者に直接投げかけましたので、最初の問いかけはこの絵について教えてくださいというものでした。そして、(詳細をとっていたわけでないのでざっくりですが)教えてもらった作品の意図や特徴に関してパラフレーズをしていく、パラフレーズとはほぼ同じ意味の違う言葉を用いて直前の発言を振り返り確認していくことです。

そうして、制作者の意図を聞いて、友人の思ったことを聞いて質問とパラフレーズを繰り返していく。そうして行った時に、作者が「なるほど!」「確かにそう見える!」というような発言する瞬間がありました。これが作者の意図を越えた瞬間だと思います。

作品にはそれに込めた意味以上の意味を孕む余白があると私は考えています。現に、自信満々に猫を描いたつもりでも「この変な犬何?」とか言われることないですか?(絵が壊滅的なだけかもしれません)
これって作品が作者の意図を越えた瞬間ですよね。

そしてそれは決して揚げ足を取るものではないのです。他者の発言や新しい解釈を通して制作者もまた解釈が変容していきます。言い方を変えると、元々意図していた意味以上の深いレベルへ徐々に近づいていくのです。なんともわかりにくいかもしれませんね。

難しいけど、言いたいことはこんなイメージです。

名称未設定アートワーク 8

多様な解釈を得ることで、制作者が込めた意味以上の意味を作品が獲得できるのです。そしてそれは、自分自身やその場で言葉を分かち合った仲間の財産となっていくからこそ、正解ではなくその先の自由な解釈が必要だと思っています。決して、解説や意図が悪いと言っているわけではありません。もらえるものが悪いものでなければ、もらっといた方が良くないかな?みたいな感じです。

そんなこんなで、自由な解釈と意味づけは、元あるもの以上の意味や価値を作品や鑑賞者延いては制作者にも付与できるという瞬間に実際に会えたという話です。

どれが一番いいってことではないのです。もらえるならもらっとこうよ。それで嫌になる人いないし的なマインドで受け取ってもらえると語弊がないかと思います。その際に、礼儀として一度断っとくとかは必要ないですからね笑


もっとちゃんと書けるかもしれないけれど、今はこれが限界です。後で直すにしろこの感覚を忘れないうちに皆さんと分かち合いたかったのです。

そして、この話題に関して、後で教育学や心理学を交えて書こうと思ってますが、難しいのでまとまってませんのでのでので、もう少々お待ちください。

なんとなく観てみると世界はすぐに広がるかもよ。

以下の本を参考にしております
「まなざしの共有」上野行一 監修
「反アート入門」椹木野衣


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