年功と序列

世の中や社会を理解するには、似通った人とばかり一緒にいるのはそれほどよくないという話。

私の大学のゼミには、毎年3年生と4年生が10人弱ずつ在籍している。基本的にゼミの仲間は全員仲がよいのだが、一歳違う人たちの混じり合うこの集団は方や「先輩」方や「後輩」と呼び合って、それほど交わる事は無い。(もちろんそれ以前に「先生」と「学生」という壁も存在するわけだが。)ちょっと大げさな言い方に聞こえるけれども、ここ15年ほど学生たちと過ごしていてその部分にはそれほど変化しているようにはみられない。数十年前に僕らが中学生だった頃の部活動の「先輩・後輩」と言うのと感覚的にはあまり変わってない感じがする。もちろん悪いことばかりでは無いのだけれども、いまだに「同期の桜」と言うのはなんだかなという気持ちにはなる。

僕は子供の頃から「学年」と言うのには不条理なものを感じていて、そのタテ社会の構造のせいで中学校や高校生活がそれほど面白くなかった記憶が多々ある。歳が1つ違うだけで理不尽な目にあったり、またその逆に1つ年下の人たちを理不尽な目に合わせたりしてしまうことが度々あった。なので、先輩になろうが、後輩になろうが気持ちはよくない。小学校で6年間、中学校の3年間、そして高校の3年間、学校教育の中で僕らは主に同い年の人たちとずっと過ごしてきた。下手をすると保育園や幼稚園でも同い年の子供たちとずっと過ごしている。多くの人々にとってそれは学校の中での当たり前の人間関係で、いい思い出を持っていらっしゃる方も多いと思う。

ただ、学校で10年以上そんな生活を送っていると、違う年代の人たちと急に何かを一緒にやっていこうとする時に、抵抗を感じるのではないかと思う。世の中には様々な違った背景の人たちがいるわけで、世の中も変化してきている。そうした変化の中でいろんな人と一緒に生きていくためには、「先輩・後輩」のような制度とは別のやり方が必要で、いろいろな年代の人や多様な性の違い、あるいは違う言語の人たちと常に混じり合うような環境のための別のルールが必要だ。

同じ年齢の人たちがみんな揃って同じスピードで人生を歩む必要もなく、全く違った人生がそれぞれに広がっていく方が面白い。アートや教育を通じて、そんなルール作りをしていきたい。



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