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#4_日常の中のわたし、わたしの中の日常

前にXで見たこちらの投稿

なんとなく現代人の課題の輪郭をつかまえている気がする。

でもわたしの日常を語るために、「わたし」ってそもそも必然的に介在してるものだと思ったんだけど。
いや広告批判とかではなく、ね。

「わたし」が存在してるからそこに「日常」が生まれるわけで、
「日常」があってそこに「わたし」が生まれるわけではないよなぁ

あ〜〜なんか引っかかってる理由はあれか、
仕事上「日常」が禁止ワードになってるからか。すっかり仕事脳〜〜。

どういうことかっていうと、
僕の仕事って消費者インサイトの分析ありきなんですけど、
日常って、主語になる人によって解釈違うじゃーんってさんざ怒られてきたからですね。

今は後輩ちゃんたちに「メッ」する立場になってしまった、年取ったのぉ。

そうそう、だから日常を語るっていうのはわたしが絶対的にそこにいるって感覚に
調教されちゃってますね。なんとなく腹落ち。

まあそれは置いといて。

わたしの日常なのに、わたし成分足りてないっていうのはなんなんだろう。
自分出してこーぜ!って解釈なのかもしれないけど。
どれだけ今の日本人、自分を出すことに抵抗あるねんって感じよね

あーだからまぁそういう意味で見ると
「わたしがいない」じゃなくて「わたしが足りない」っていい塩梅じゃんね。
クリエイティブってすげーー。

またまたそれは置いといて。とはいえわたしって何なんだっていう謎は謎のまま。

じゃあ逆説的に、さっきは否定したけど
日常の中に生まれるわたしってなんなんだろう?って
ちょっと考えてみたくなったわけで。ただまあそうすると
「わたし」について主観と客観の両面から考えないといけないのでは?と壁にぶち当たった←イマココ

ふむどうしたものかな〜〜、でこの話は蓋をしようと思ったんだけど
そういえば途中まで読んで、同じく蓋をした本があったわ。

ショーペンハウアー先生、主観と客観とは何たるか教えてくだせぇ
どうでもいいけど、ショーペンハウアーの眼光の鋭さ、いかにも哲学者って感じでいいよね。

(これ読むの激しく体力と時間がかかるから、正直もう手に取りたくない)

読み進めたらこの話題に自分なりの結論出そうと思います


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