【小説】迷い猫 3
(3)
翌朝、母と弟が出かけた頃合いに友梨佳が猫のキャリーを持ってやってきた。到着の連絡を受け茉莉が家の外に出ると、道路の向かいから友梨佳が手を振っているのが見える。
「おはよう! 飼い主さん見つかって良かったね」
「うん。小田さん、ここまでどうやってきたの?」
「うん? 車だよ。送ってもらった」
涼し気な顔で友梨佳は返した。一人暮らしのはずなのに誰に、などと野暮なことは茉莉とて聞かない。
「友梨佳でいいよ。私も茉莉って呼んでいい?」
友梨佳は当たり前のようにそう言った。もやっとした抵抗感が茉莉の脳裏を掠める。だが、茉莉はあっさりと了承した。友梨佳のコミュニケーション能力と茉莉のそれとは圧倒的な差があり、いっそのこと相手に合わせてたほうが楽だと判断したのだ。
友梨佳には飼い主との待ち合わせ時間と場所を昨夜のうちに伝えていた。夕方4時、立川駅。
「茉莉って真面目だよね。別に大学の授業さぼって昼のうちに行っちゃえばよかったのに。私いけたよ?」
「……昨日も休んじゃったから」
「あ、そうかそうか、そうだよねー。あの時間にあんなところにいたんだもんね」
あえて、なのか……? またこんなセリフを友梨佳は挟む。自分だってあの時間にあんなところにいたじゃないか、と思うがもちろん口には出来ない。
いったい、何を考えているんだろう?
茉莉は自分が〝ゼミをさぼった理由〟に深く深く関わる目の前の人物をまじまじと見た。今のところ〝あのこと〟を誰かに言いふらしたりする気配もない。
不思議と友梨佳の感情はあまり茉莉に伝播してこなかった。こんな経験はあまりしたことが無い。
「ま、大丈夫だよ! 授業の間、サークルの同期たちがみててくれることになったから! これキャリーね!」
茉莉の葛藤などお構いなしに、任せての見本みたいな笑顔で友梨佳は言った。
さっそく猫をキャリーへ入れることにした。逃げられることが怖いので不本意ながら一時的に友梨佳を自宅の玄関まで入れた。
「お邪魔しま~す」
猫の匂いがついたタオルを先にキャリーに移したあと、ダンボール箱から慎重に移動させる。昨夜から少し猫に慣れてきたこともあり、抵抗されることもなくすんなりと移動させられた。
「なんて呼んでるの?」
その様子を見ていた友梨佳が唐突に尋ねてきた。茉莉は友梨佳を振り返った。
「え?『猫ちゃん』だよ」
「じゃあさ『とろろ』って呼ばない?」
え、何言ってるんだこの子。
茉莉は思わず早口になった。
「いやいやいや。これから飼い主さんに返すのに名前なんてつけたら愛着わいちゃうし。猫ちゃんでいいじゃん」
「そっかなぁ。束の間でもお近づきになったから名前つけてもよくない? 私、とろろって呼ぶ」
な、なんでよりによって離れがたくするの? というか何故「とろろ」?
?マークを顔に浮かべたまま茉莉が言葉を選んでいると、友梨佳は猫のキャリーを持ち上げた。
「いこ! 友達まってるし」
キャリーを抱えて二人は、茉莉の最寄り駅から大学の最寄り駅への一駅を移動した。そのままキャンパスに入ると、友梨佳は「こっち」といって学食のテラス席へ誘導した。
そこには、友梨佳のサークルの仲間たちが集まっていた。その中の一人を見て、茉莉は一瞬たじろいた。母校である高校で関わったことのある人物だった。
「あ、紹介するね。っていっても、久美は知ってる? 高校一緒。顔くらいは見たことあるよね? いま経済学部にいるよ」
久美が「ひさしぶり~」と微笑んだので、茉莉も「ひさしぶり」と返した。笑ったつもりだが実際にはうまく笑えていないに違いない。
友梨佳はシンプルなトップスにテーパードパンツというきれいめファッションで、久美はセミロングの髪の毛を後ろでまとめ、ボウタイブラウスをチェック柄のスカートに合わせている。二人ともいかにも今どきのお洒落な大学生といった感じだ。
茉莉はTシャツにデニムにリュックという自分の恰好がひどく場違いに思えた。
「こちらは、彩愛。うちらと同じ文学部だけど、ゼミは別。なんかの授業では会ったことあるかな?」
彩愛はどちらかというとフェミニンな感じの印象だ。毛先を巻いてパステルカラーのトップスにふわふわとしたスカートという出で立ちだ。にっこりと微笑む。
「と、その彩愛の彼氏。……でいいんでしたっけ? 健吾さん」
「いいんでしたっけってなに? そろそろ彩愛の彼氏って認めてくれてない? ねぇ?
はじめまして。4年の健吾です」
ダボっとしたデニムを緩めに穿いた男性が挨拶を返してくれた。背が高く日焼けしており、いかにも高校では体育会系部活をやっていたような雰囲気だ。
皆はキャリーの中にいる猫を代わる代わる見た。「カワイイ」「よく助けたねエライ」「昨日大変だったでしょ」口々に茉莉を褒める。
久美が「どこで拾ったの?」と友梨佳に聞く。「イヨンの1階でたとこの大通り沿い」と友梨佳が返す。
「最初、もっと衰弱してて心配だったよね。茉莉が一晩、一生懸命面倒みてくれたおかげだよ」
友梨佳がそう言うと、久美がすごいすごいという風に頷く。
友梨佳は高校の時と変わっていない。いつの間にか皆の中心にいて、発言もすんなりと受け入れられ違和感を持たれることがない。
茉莉は落ち着かない。久美がすごいと頷いているのは、自分に対してでない。友梨佳というフィルターを通しているから、褒めてくれる。
——友達だと思ってたのに、そんなこと言うんだね?
脳の奥深くから聞こえる古い記憶を茉莉は必死にかき消した。キャリーの中の猫をみつめると、丸い瞳で興味津々と周りに顔を向ける。
「飼い主さんとはどこで待ち合わせしたの?」
キャリーを覗き込んでいた彩愛が茉莉に聞いた。
「立川だよ」
「そうなんだ、ちょっと遠いね」
「……でも見つかって良かった。飼い主さんが見つからなかったら、明日動物病院に連れてこうかと思ってたから」
「動物病院? どこか具合悪そうなの?」
「なんか……病気を持っていたりする場合もあるし、マイクロチップっていうので飼い主が分かるかもって」
茉莉はマイクロチップのことを説明した。傍で聞いていた健吾が同意した。
「ああ、オレ実家が犬飼ってたから知ってるよ。確かに最近の猫なら動物病院いけば飼い主にたどり着けるかもな。いい時代になったよ。
でもさ、動物病院って結構お金かかるだろ?」
茉莉の懸念を健吾が言い当てた。正直お金のことは茉莉にとって悩ましいことだった。だが、この尊い生き物の命に関わる事態に、お金を懸念していることを茉莉はどこかで恥じていた。
「そう……みたいですね。なんか1万円くらいかかるかもって」
「1万か~。もし病院連れてくことになってキツかったら、俺ちょっとフォローしてあげようか?」
何事もなさそうに健吾が言った。茉莉が驚いて言葉を発するより先に横から彩愛が口を挟んだ。
「え? 健吾さん大丈夫?」
「大丈夫だよ! 俺、結構バイトしてるし! もうちょっと彼氏のこと信頼してもらえます?」
健吾のキレの良い返しに、一同が笑った。
「ありがとうございます。でもとりあえず今日飼い主さんに返せればそれで大丈夫だと思うんで……」
茉莉の言葉に被せ気味に友梨佳が入る。
「あ、そうそう、それで健吾さん。2限と3限ないんですよね? その間、みててもらっていいですか?」
「オッケー。安心して。キャリーをずっとそばに置いとく」
「いいなぁ私も猫ちゃんと居たい~」
横で見ていた彩愛が健吾に甘えるような口調で言った。
「は? 次の必修だろ? これ以上休んだら単位落とすって言ってなかった?」
「そうだよ。先週も休んだじゃん」
即座に入った健吾からの否定に続いて友梨佳も同調した。彩愛は少し膨れた顔をすると、ミニチュアのサッカーボールを取り出した。
「じゃあせめて授業までちょっと遊んでてもいい?」
「逃がすなよ……。っていうか、それ大事なグッズじゃないの?」
茉莉でも知るクラブチームのロゴが入っていた。
「大事だけど、サイズがちょうどいいかと思って持ってきたんだ。キャリーから出さないからいいでしょ?」
彩愛が茉莉のほうを見てニコリと微笑んだ。猫は退屈していたのか、彩愛が入れたボールを前脚でころころと転がして遊んだ。
授業のあと、健吾からキャリーを受け取った。猫が元気そうで茉莉は安心した。健吾に礼を言い、友梨佳とともに駅に移動する。
飼い主との待ち合わせ場所へ向かうためだ。
まだ通勤ラッシュの時間に差し掛かっていない電車内は空席もちらほらとあったが、茉莉と友梨佳は猫を挟むようにドア付近に立った。
「でもホント飼い主見つかってよかったね。だってさ、ネットってすごい情報量だからそこから探し出すって結構至難の業だよね。見つかっても相手が信頼できるか分からないしさ」
見慣れた街の風景が流れていくのを車窓から眺めながら友梨佳は何気ない感じで言った。
——相手が信頼できるか分からない。
茉莉は急に背筋を冷たいものが通過したように感じた。
確かにそうだ。たまたまそれっぽい動画を発見し、猫の写真を見せて向こうがそうだと言ったから、そうなんだと思っている。
友梨佳と茉莉はお互いどちらともなくスマートフォンをいじる。茉莉の耳には自然と近くの席に座る女子高生たちが会話が入ってきた。
「この前、おばあちゃんが殺された事件あったでしょ? あれめっちゃ近くらしいよ」
「あー強盗? ネットでみたかも」
「何度も殴られて殺されたらしい」
「やば」
昨夜の夕飯時にテレビで報道されていたニュースを思い出した茉莉は、思わずその強盗事件をスマートフォンで検索した。
被害者は隣町に住む資産家のおばあさんのようだった。鈍器で複数回殴られて殺害されたと書かれている。確かに凄惨な事件だ。
ニュース番組の動画を音なしで観る。近所の人がインタビューされている。
——品のいいおばあさんで。あんな被害に遭うような人じゃないんですよ。人から恨まれたりしなそうっていうか……。金品目的ならね、そこまでしなくてもいいのにね。
——ご主人が亡くなってからはお独りだったんじゃないかしら。最近は猫ちゃんがいたはずだったけど……。可哀相ねあの猫何処へ行ったのかしら。
「そのニュース怖いよね」
茉莉の観ている動画が目に入ったのか、友梨佳がそう呟く。
キャリーケースが動いた。中の様子をみたが、猫は少し動いただけで相変わらず静かにしていた。大学をでるときに水をあげたが、普段飼っているわけでない茉莉はインターネットの情報が頼りで、猫の動き一つ一つが気なって仕方ない。
寒気のような身体の震えはますます強まった。
「次、立川だよ」
友梨佳が声をかけてきた。茉莉は頷くとキャリーを抱えて電車を降りた。多摩モノレールから降りた二人は改札を抜け、ペデストリアンデッキを進みJR立川駅の方へと向かった。
飼い主の指定してきた場所はJR立川駅南口にある不動産会社の青い看板が目立つテナントビルの前だった。
目印のビルに少し早めに着いた二人はペデストリアンデッキ上で待った。
老若男女実に多くの人が行き交っている。
事前に飼い主から伝えられていたことは「オレンジ色のキャリーケースを持ち、自分は黒い帽子を被っている」とのことだった。
茉莉も自分たちの特徴と大学生2人だと伝えてあった。
「会えるかね」
多くの人の往来に不安を感じたのか友梨佳が呟いた。
「会えるといいね」
友梨佳は今度はキャリーの中を覗きながらそう言った。
相変わらず茉莉の心中は落ち着いていなかった。
何故だろう、何かが引っ掛かっているが理由が分からない。言うならば漠然とした不安。果たして自分の行動は合っているのか? これで良かったのか?
電車での移動中、ずっと昨日からのことを繰り返し考えていた。
配信された動画を発見したとき、茉莉の中に疑いはなかった。
普段の茉莉はどちらかといえば臆病で「石橋を叩いて壊さないでね?」は母の茉莉への口癖だ。ところが昨夜は猫を拾うという非日常の体験からずっと張り巡らされた神経は休まることがなかった。時間にしたら数時間程度かもしれないが、茉莉に負荷がかかっていたのは間違いない。
非日常は時に人を狂わせる。
昨夜茉莉の中で「この相手は信用できるのか」の一点は完全に抜け落ちていた。
茉莉の自覚する数少ない特技の中に「背筋が震えるときは止めたほうがい」があった。根拠などない。ただ彼女の脳内がアラームのように告げる。
茉莉の頭をかすめる不安は次第に少し色を濃くしていく。
「あの人かな?」
友梨佳の指し示した方角を見た。確かにJR立川駅のほうから、ペット用のキャリーをもった人物が歩いてくるのが見える。黒い帽子を被っている。
想像より大分若そうな男性だった。帽子は目深にかぶり、上下とも黒い服でマスクをしている。手に持つキャリーが不釣り合いなくらい、猫の飼い主に見えない。
茉莉の不安はさらに濃さを増した。
ダメだ。
頭の中で警告が聞こえる。
あの人に猫を渡してはいけない。
「ごめん、友梨佳。やめよう。あの人にこの猫は渡せない」
「え? なんで?」
次の瞬間茉莉はキャリーを抱えたまま踵を返した。そのまま元きた方へ足早に戻る。「茉莉!」とだけ言って友梨佳も後を追う。
キャリーに振動を与えないよう可能な限りの早歩きをしながら、茉莉は後ろを振り返った。黒い服の人物は自分たちの動きを視認している。あちらも速度を速めてこちらに近づいてくる。
遠くからも分かった。その目は明らかに私たちを獲物として捉えている。
あの人はただの純粋な飼い主などではない。
逃げなくては。
「茉莉、やばいよ。あの人、こっちに気づいてる。どんどんこちらに近づいているよ。こっちは猫がいるし、絶対捕まる」
友梨佳も珍しく焦った口調となる。サラリーマンや学生、多くの人が歩く中で猫の入ったキャリーを抱えた二人は逃げるとはとても言えない動きだ。揺らせないし、当然走れない。
多摩モノレールの駅に入ってしまえば……。改札の手前まできて、二人は再び後ろを振り返った。
「友梨佳」
その時、茉莉の見知らぬ男性が友梨佳の腕を掴んだ。
(つづく)
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