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卒業式に詰まった「愛」

「教員じゃない立場で学校現場に携わりたい。」と学生時代に思った私が、
教育実習で感じた「学校って"愛"で溢れてる場所」だということ。
直感的に感じたその理由が、卒業式でついに分かった気がするので記します。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

愛するということ/エーリッヒフロム

01:「子」と「親」の愛

社会教育コーディネーター4年目にもなると、保護者さんの顔と名前が100%全員分かるようになりました。祖父母もだいたい分かります。
学校にいながら、"子"の姿を"保護者"に話して、共に子どもを育てる意識を共有してきました。
そして、そんな"子"の話だけでなく、雑談をするうちに、だんだん"保護者"という立場を超えて、その人自身(お仕事や趣味、我が子の育ちへの思い等)も知るようになりました。それが分かるのが全体の保護者数の60%くらい。
中には、プライベートで一緒に飲みに行ったり、一緒に野球の試合をしたりするくらい仲良くなった人もいます。
そんな"人"たちの"子"と毎日関わって、成長の過程を近くで見てきました。

蜜を与えられる母親になるためには、単なる「良い母」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならない。

愛するということ/エーリッヒフロム

卒業式では、”子”が”親”に感謝の気持ちと共に卒業証書を渡します。
その時、これまでは「○○(子)の△△(お父さん、お母さん)」と「子ども→保護者」の観点だけだったけど、「△△(人)の〇〇(子ども)」と「保護者→子ども」の観点も増えていることに気づきました。
「親にとっての卒業式」を思うと、感動していました。

親にとっての卒業式でもある

02:「児童」と「教員」の愛

卒業式後には教室で、最後の授業として”先生”から”児童”へ「漢字一文字」のプレゼントがありました。”児童”の特徴を知っている私としては、どれも「たしかに!」と納得の一文字で、”担任”からみた”児童”の良さや強み、願いが詰まった一文字でした。

“先生”という仮面をかぶっていると、叱ったり怖い部分を現すこともありますが、こういった”児童”への愛が形として見えた時、感動していました。

愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのだ。

愛するということ/エーリッヒフロム

そういえば、社会教育コーディネーター1年目の時に感じたことは、「先生も1人の人なんだな」ということでした。
教室と職員室の顔は少し違って、”教員”は役者だなぁと思いました。

さらに、プライベートで先生と遊ぶと、そりゃここには書けない個人のカラーがあることが分かります。そんな立場を超えたことまで知れる関係になれるのは、学校の中に席を置く社会教育コーディネーターの強みですね。

03:「先輩」と「後輩」の愛

どの学校でもあると思いますが、卒業式が近づくと「卒業生を送る会」があります。
学校の次期リーダーになる5年生が企画・運営をし、色々な催しをします。
6年生の得意を生かしたゲーム対決では、"先輩"に勝つ"後輩"の姿があったり、「中学生になっても頑張ってください!フレー!フレー!!」と応援のエールを送ります。

愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。

愛するということ/エーリッヒフロム

つまり、人間は愛?!

"子"と"親(保護者)"という「関係性」、
"児童"と"教員(担任)"という「立場」、
"先輩"と"後輩"という「繋がり」。
ここではあえて関係性や立場の名前で表しました。

"愛"というのは、人と人の「間」(関係性や物)に存在するのではないか。つまり「人間は愛」ということなのかなという仮説が生まれました。
人間には愛があり、他者と関わるということは、自分と他者の間に愛があるということだと思います。

そして、私は「愛」や「勇気」に触れた時に感動していることに気づきました。
そんな瞬間に触れやすいのが、学校という場だと思います。

愛されるには、そして愛するには、"勇気"が必要だ。
信念をもつには"勇気"がいる。
"勇気"とは、あえて危険をおかす"能力"であり、苦痛や失望をも受け入れる"覚悟"である。

愛するということ/エーリッヒフロム

「立場」を超えて人として出会い、繋がることができることが社会教育コーディネーターのやりがいだなと思います。

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