わたしの祖母が一番きれいだったとき
BY:タツゴロウ (茨木のり子さんの詩のオマージュ)
わたしの祖母が一番きれいだったとき
祖母の国は戦争で負けた
ひどく壊れた街は 優しさの影もなく
誰もがうつむいて卑屈に歩いた
結婚するはずの相手は
連絡が途切れて迎えに来てはくれなかった
ブラウスのそでをまくり
8人の幼い弟と妹と 生きることで精一杯
わたしの祖母が一番きれいだったとき
そうね 何も話したくないわ
本当はもっと勉強したかったの 女学校で一番だったから
弟を大学に行かせたのはわたし 妹も勉強ができるように支えたわ
男も女も関係なく働いたのに
豊かになってくると 手柄は全部男たちが持っていった
我慢するのも嫌だから喧嘩したのよ
だけどいつも孤独な戦いだった
後ろ指を指されるのが嫌で いつも早足で歩いた
結婚はね 家が決めたことだから
あなたが生まれて ようやく笑えるようになったわ
わたしも あなたのおじいちゃんもね
女は強いのよ
みんなは反対したけど
子供たち3人を戦勝国の大学に行かせたの
あなたもこの国を出て行かなきゃだめよ
勉強して立派にならないと
わたしは100歳まで そしてもっと生きるから
ずっとあなたを応援するから
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尊敬する茨木のり子さんと同世代だったうちのおばあちゃん、
生きていたら今年で100歳になります。
本当に強い女性でした。おばあちゃんのことを思い出し、茨木さんの世界的に有名な「わたしが一番きれいだったとき」にのせて、彼女の話した言葉を作品にしてみました。
あまり昔話をする人ではなかったのですが、印象的な話や行動がいくつかあって、それを今はアメリカで育っている自分の子供たちに残しておきたいと思ったわけです。
祖母は障がいを持った子供たちと家族を毎月の決まった日曜日に我が家に招き、昼食を振舞いました。僕は必ずお手伝いに呼ばれ、楽しい時間を過ごしました。障がいのせいで母子家庭となっている家族も多く、なぜ男の人はこの集まりに来ないのだろうと幼いながら不思議に思うこともありました。
NTTという会社(前身は日本電電)で16歳から66歳まで連続勤務で表彰され、女性の連続勤務記録で日本ーだったというのが祖母の自慢でした。4人の子供を産み(悲しいことに長男は2歳で病死しています)、祖父は家事などしない中で、子供たちを育て上げたことは本当にすごいなと思います。男女差別も今と比較できないほどだったと想像します。苦労を想像すると涙が出ますね。私や私の兄弟姉妹、従兄弟も学費の一部を支援してもらいました。
自分自身にはあまりお金を使わないのですが、小綺麗なおしゃれをしていたことはよく覚えています。
老後はパーキンソン病を患い、病状が進むと私のことを私の父と間違えるようになり、私を旦那と呼ぶ時期もありました。徐々に記憶が若くなり、私を叔父さん、お父さんと呼ぶ頃には、いつも笑顔で幸せな少女のようでした。
私が研究のためアメリカに飛び立つ2ヶ月前に彼女は息を引き取りましたが、私の中では今でも強く生き続けています。