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小説『海風』僕の話(5)【第一章を無料公開中】

 今日は曇天が広がっている。歩き始めてから三日が経つが、結局のところまだ宿には一度も泊まっていない。今日こそは宿に泊まった方が良さそうだ。また山道を歩く僕らの背中にはじんわりと汗がにじんでいて、ベッタリとした空気が心も重くするようだった。そんな大気で呼吸しているからか、いつもは降ってくる彼からの話題もどこかに沈んでいるらしく、気詰まりになって無理やり話題を振る。耐えきれなくなって落とした僕の言葉はポツリポツリと降り始めた小雨と同じように、これから降る大雨の予兆だったのかもしれない。
「そういえばさ、今更だけど、なんでこんな旅について来ようと思ったの?」
「ああ、そのことか……」
彼は少し考え込む。数秒後、歩く足を止めて振り向き、僕の顔を睨みつけるように見つめ、ハキハキとした口調で答える。
「俺は嘘はつきたくない。だからお前が知りたければ話す。お前には知る権利があることだ。でも知ってしまったら、この旅を辞めることになるかもしれない」
気軽に尋ねたつもりだったのだが、彼はいつになく真剣な顔つきだった。
「そんな大袈裟な理由なわけ?」
「正直、お前が受け止めきれるかどうか半々といったところだな。俺はてっきりこの事をもうとっくに知っていて、その上でこの旅をすることに決めたんだと思ってた」
「なんのこと……?」
ある種の言い訳めいた前置きに不吉な予感はしていた。そして彼の決意したような鋭い眼光に気押されてもいた。僕の言葉を待たず、彼は口を開く。
「知りたいか?」
「……うん。怖いけど僕は知りたい」
「わかった。どうせ遅かれ早かれこの事実を観測し、確定させなければいけない。それがたまたま今なんだと思う。ただ、最後まで話を聞いてくれよ」
僕は生唾を飲み込む。彼自身のことだろうか?それとも……。頭をよぎるのは彼女のことだ。彼と彼女は幼馴染だと言っていた。正確には、「兄妹みたいなものかな、腐れ縁だよ」と。もしかしたら、彼女に何かあったのかもしれない。彼は一度ふぅーと深く息を吐き切って告げた。判決を下すように厳かに。
「彼女は死んだよ」
「……は?」
言語も思考もごちゃごちゃに絡まり、もつれて、意味を見失っていた。普段は反射的に出ないように抑えている「は?」という音はもしかしたら、僕の気持ちの代弁として一番適切な表現だったのかもしれない。
「俺も親から聞いて知った。なぜ死んだのかはわからない。葬儀もひっそりと親族だけで済ませたらしい」
彼女が死んだ?どうしようもなく天真爛漫で、飾り気のない彼女。猫みたいに自由で、いつも笑顔で、楽しそうで、美しくて。握ってくれた温かくて柔らかい手の平も、僕なんかのことを「好きだ」と言ってくれた澄んだ声も、初めてキスの感触を教えてくれた唇も、何一つ穢れなど無いように見えた。ありえない。ありえないけれど、彼がそんな嘘をつくわけないとわかっている。
「嘘だと言って……頼むから」
「彼女の死は確定してしまったんだ。仕方がないことなんだよ」
彼は寂しげではあったが、ただ死という事象を観測しただけの冷静な物言いだった。対照的に僕の胸の内は、沸き立つ泡が水蒸気になっていくように、たくさんの感情が膨れては弾けていて、思考はそれらに追いつかない。感情とそれに付随する言葉が溢れて、零れて、頭の中を瞬く間に洪水にしてしまった。なぜ彼女が死ななくちゃいけなかった?僕のせいだ。僕が殺した。彼女に触れられなかったから。僕が「愛している」と言えなかったから。彼女を拒絶してしまったから。

 僕は膝から崩れ落ちて泣いていた。とめどない感情の渦が大きな重力を作りその臨界点を超えてブラックホールを形成する。その黒い流砂にのまれていく自分を、外から見つめている自分もいる。「こんなに泣いたのはいつぶりだろうな」そんな冷静な自分と、嗚咽しながらもがく自分。引きずり込んでやりたいと思った。見下ろすような冷めた自分を、この熱くて寒い渦の底へと。
「彼女は……なんで死んだんだよ?いつ?どうやって?なんで、なんでだよ!」
「死因は知らないって言ったろ。病気かもしれないし、事故かもしれない」
彼は見下ろしている自分と同じ顔をしていて、僕は声を荒らげる。僕の顔は、どんな顔をしているのかわからない。全てがどうでも良かった。別れてから彼女が死ぬまでの期間に何があったのか、僕は何も知らない。毎日のように彼女のことを考えていたけれど、彼女がもういないなんて事は考えたことがなかった。シュレディンガーの猫は死んでいた。箱の蓋を開けてみれば、彼女の死ということだけが確定した事実だった。

 よろよろと立ち上がると、足をもつれさせながら走り出す。叫びとも呻きともわからないノイズを撒き散らしながら。この場に、どこにも居たくなかった。世界で一人きりになりたかった。いや、理由はいくらでもでっちあげられるけど、本当は何も意味なんてなくて、どうしようもない感情の波にただ突き動かされていた。
「っ!おいっ!待てよ!」
体が溶けだしてボロボロこぼれていく。それを振るい落としたかった。とにかく無我夢中でぐちゃぐちゃに進んだ。気づけば大きな樹の下で、一人うずくまってむせび泣いていた。どうしてこんなにも涙が出るのだろう。僕がこんなに涙を溜めていたなんて知らなかった。僕が殺した、から。彼女を愛せなかった、から。僕は、生きていてよいのだろうか。
 雨はいつの間にか本降りに変わっていた。止まない雨はないと言うけれど、いつまでも降る感じがする。世界は移り変わりで波で諸行無常。確かに一瞬たりとも同じ瞬間なんてない。この心も同じではなく、次から次へと苦しみが渦を巻き、それがまるで永遠に続くかのようだ。心も体も何もかもがぐっしょり濡れて、冷たく濁っていた。
 元々曇っていた僕の心も、この旅をしていけば晴れると信じて、なんの根拠もないけれど歩いてきた。きっと海風が何もかも吹きさらってくれるだろうと。だけど、彼女の死は雨を降らすには十分すぎるほどの低気圧で、見える物全てを真っ暗な灰色の雲が埋め尽くしていた。涙は止まらない。嫌でも浮かんでくる雲の群れにがんじがらめになる。彼女に対する罪の意識、ロクでもない憶測、自分の情けなさや後悔たち。あんなにも美しい彼女がどうして死ななくてはいけなかったのか。どうして薄汚れた僕なんかが生きているのだろうか。どうして僕は彼女を愛せなかったのか。もう、僕の言葉を彼女に伝えることはできない。
「いっそこのまま死んでしまえたら、もしかしたら彼女に会えるかもしれないな」
そんなことまで口からこぼれ出す。その夥しい量の思考や感情は浮かんでは消えることなどなく、容赦無く積まれていって、確かな質量を持って覆い被さっていく。
 何もかもが重たい。頭が痛く、胸が苦しい。もはや歩くどころか、立ち上がる気力もなかった。「生命とは動きだ」と彼は言った。なら僕はもう生命ではないんじゃないか。木にもたれかかり、滝のように木を伝う雨粒を頭に受けながら、冷えていくはずの体温がいつもより熱いのを感じる。目の奥が重くなり、意識が薄れていく。視界が狭まって、黒い斑点がパチパチと視界を泳ぎ、全体がぐわんぐわんと歪んでいく。手足の感覚が自分から離れて、膨らんでは萎む。そんな混沌白濁とした意識の狭間でまた彼女を思い出し、涙が頬から全身を伝った。

 あれは付き合い始めてすぐの頃。まだ夏の匂いが街には漂っていた。彼女の服装はシンプルな白いTシャツを黄色いスカートにインしていて、踵に高さのあるクリーム色のサンダルを履いている。サラサラとなびく髪も良いけれど、ポニーテールに結んだ彼女が僕は好きだった。対する僕は全て安物の真っ黒なシャツとジーンズとスニーカー。向かい合う姿は光と影みたいでアンバランスな感じがして、一緒に座っているのがとても新鮮で落ち着かなかった。
「なんで、僕なんかと付き合ったの?」
純粋な疑問だった。それほどに彼女は僕とは正反対だと思う。僕は暗くて惨め。彼女は明るくて眩しい。だけど彼女は意味がわからないと言いたげに首を傾げながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「うーん、理由なんてない、かな。いや、言葉では表せないって感じ?とにかく私はただ惹かれたの。感情はいろんな要素で湧いてくるし、その感覚に素直に従っただけだよ。もちろん優しいとか、趣味が合うとか、私を受け入れてくれるとか、顔が好みとか、言葉でも言えることはあるけど、それは一部であって、全部を言葉じゃ言えないの。車を分解していったところでそこに本質は見つからないみたいに」
彼女は古代インドの思想家みたいなことを口にする。ギャップがあるはずなのに妙に馴染んでいるのが彼女らしさなのかもしれない。彼女が好きでいてくれるという事実への照れ隠しと、そんなギャップについ笑ってしまう。女子大生でこんなことを言うのは彼女くらいじゃないか。
「……つまり、君という存在自体に惹かれたの。要素は多すぎてわからない。だから”僕なんか”って自分を否定するのは私にも失礼なんだよ!」
頬杖をついて軽く頬を膨らませる彼女の仕草は愛らしくて、怒りをどうにも真剣に受け止められない。
「ごめん……君がそう言ってくれるのは本当に嬉しいけど、素直には受け取れないよ……だって僕にとって君の方が数百倍も素敵な人だし、釣り合ってるとは到底思えないんだ」
言った後少し恥ずかしくて、胸のあたりが緊張して強張り、体温が上がるのを感じた。彼女のことが好きだ。でもそれはやはり許されない事に感じる。
「ふーん、ありがとう。そんなふうに思ってくれてたのは嬉しい。でも、私は君のことを私自身と同じくらい大切だと思ってる。だから卑下されると、嫌な気分になるよ。というわけで、そういうの禁止ね!」
「うわ、難しいなあ」
「そういうところだよ。簡単カンタン。それとも何?これ以上か弱い私を傷つけるつもりなわけ?」
「はい。やります。カンタンデス」
明らかにぎこちなく、本音でない答えを返す。それを見透かして、半ば呆れながらも彼女は笑っていた。
「それでよろしい!最初はね」
彼女はよくわからないほどにカスタムされたフラペチーノ?を美味しそうに、笑顔で飲んだ。フラペチーノの本質はどこにあるのだろう。僕は何のカスタムもしていないアイスコーヒーを手に取りストローを咥える。ひんやりとしたはずの掌の感触と、流し込んだあとのコーヒーの余韻に、不思議と暖かさを感じた。彼女がこんな僕を好きでいてくれるのなら、僕も僕自身を好きになれるのかもしれない。そう思っていた。

 彼女ならこんな状態の僕に対して何を言うだろう。許してくれるだろうか。愛していると言えなかった僕を。
「お前はクズだよ。愛がわからないなんて言い訳だ。自分を幸せにしてしまうことが怖かったんだろ。ずっと自分を否定することで存在できていたんだからな。そのアイデンティティを壊そうとする彼女を恐れて、変わることを拒んだ。差し伸べてくれた手を跳ね除けたのはお前だ。そして彼女は死んで、お前はもう一生、彼女の手をとることもない。お前は自分を守った。彼女の想いを知りながら踏みにじり、逃げてウジウジして、言葉で取り繕って必死にな。こんなにも苦しんで考えてるんだって、許しを乞うだけの哀れな偽善者だよ。お前が死ねばよかったんだ。彼女を苦しめ、死に追いやった罪深いお前がな」
この言葉も感情も、許してもらうために生み出している気がして全てが嫌になる。

「おい!こんなところにいたのかよ。探したぜ」
返事もせず項垂れている僕の肩に彼は手を回す。
「アチィな。熱あるだろ絶対。死にたいかもしれねぇけど、今は俺が死なせねぇから。迷惑だと思うかもしれんが、俺のわがままだ」
「立ちたくない。僕のせいだ……僕のせい……」
「そういうのいいから。お前がお前のせいにしたいだけだろ。真実を突き止めに行くぞ。話はそれからだ」
彼もずぶ濡れで眼は赤く腫れていた。雨は止む気配がなく、耳に残る雨音はだんだんとテレビのノイズみたいになって僕の意識と共に遠ざかっていった。

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◆完全独力で執筆(執筆・編集・表紙デザイン)の処女作

「海まで歩こう」
何かの啓示のように頭を掠めたその思考は、なぜか心にしっかりと触れて、確かな感触を持って留まった。フラフラと飛んでいた間抜けな鳥が止まり木を見つけたように。どうせならあの砂浜まで歩こう。そうしたら僕にも、彼女が言っていた海風が分かるかもしれない。そして、愛とは何なのかも。(本文より引用)

「バイト、大学、読書」という定型の生活を送る大学生の”僕”。
突然話しかけてきて「友達」になった”彼”や、
別れてしまった”彼女”との日々によって、
”僕”の人生に不確実性と彩りが与えられていく。
僕だけが知らない3人の秘密。徐々に明らかになる事実とは?

「愛とは何か」「生きるとは何か」「自分とは何か」

ごちゃごちゃに絡まった糸を解きほぐし、
本当の自分と本物の世界を見つける物語。

<著者について>
武藤達也(1996年8月22日生まれ)
法政大学を卒業後、新卒入社した会社を1年3ヶ月で退職。
その後は山と廃屋を開拓してキャンプ場をオープン。
3年間キャンプ場に携わり、卒業した現在は海外渡航予定。
ブログ「無知の地」は限りなく透明に近いPV数でたまに更新中。

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