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得体の知れないことを知る作業

初めっから、車の運転がなんとなく向いていないことは分かっていた。びびりな性格がそのまま出てしまって、注意されたことがなかなか実行できない。色んなことをいっぺんに気にしながらハンドルを操作できない。

「視野を広く」「思い切って次の方向を見るんだよ」何度そんな風に言われたことか。
時にはその実践の遅さを教官に困惑され、悲しくなりながら車を降りることもあった。そして時たま、意味もなく悲観的になった。これは車の運転のことではなく、私の生き方そのものにつながっているんじゃないかと。

「今、車はどっちに進んでる?動かしてみないと、わからないよ」

最も苦手だったS字クランクでこう言われたとき、漠然と「これってまるで私のことみたい」と思った。

私は「得体の知れないものを、得体の知れるものにする」という作業をする時に、自分自身にものすごい負荷がかかる。
始める前からすごく心配する割に、なかなか動き出さないことがざらだし、いざ「えいっ」とやってみたら大したことがなかった、ということも多い。こうやって書いていると情けなくなるけれど、つくづくそういう人間だ。得体の知れないものの大小は関係なく、小さいことでも始めのうちはすぐに疲れてしまう。

動かしてみないと分からないよ、と言われても、頭ではそう分かっていても、それがすごく億劫。そんな私にとって、この言葉は「ただのS字クランク」では済ませられなかった。

でも、不思議なこともある。「新しい」「チャレンジ」と聞くと尻ごみしたくなるのに、私が大きく、ぐあっと成長するときって、どうやら新しい状況に飛び込んだ時がすごく多いみたいなのだ。

例えば、小学校の時に親の転勤で海外に連れ出されたこと。思い出はマイナスなことが多いし、どちらかというと「なければよかったのになあ」とも思う。でも、あれがなければ今の私の学生生活はなかったし、英語も学べなかった。

例えば、サークルを変えたこと。本当に不安だらけだったのに、いざ始めてみたら人もやることも全部向いていた。

小さい頃はたくさんの習い事をしていたけれど、それはどれも親にさくっと勧められ、なんとなく断るのも嫌で続けたものばかりだった。続けるうちに、それは「新しいこと」じゃなくなる。そしてその状態はすごく楽だった。それなりに技術なども上達するし、「続けること」こそが成長なんだと思っていた。でも、案外そうじゃないんだろうか。

結局、飛び込んだら飛び込んだで、必死に修正したり、考えたりして試行錯誤する。そして、どうにかなる。いつだってそれを繰り返していたはずなのに、どうしてびびってしまうんだろう。

やっぱり「得体の知れないもの」に対して、もっと自分を軽ーく飛び込ませてあげたい気もしてくる。どうしても怖くなってしまうその気持ちって、やっぱりもったいないのかもしれない。動いてみないと、分からない。それくらいの思考を持つのも、ちょっとありだ。


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