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【短編】あなたが好きだと言ったそれに僕はなりたい【最終話】

「ただいま」
 引き戸をひくと、漂ってきたのはカレーの匂い。キッチンの大鍋を覗いてみると、具沢山のさらさらなカレーが、深さ知れず、火にかけられていた。この後、僕の皿にはなみなみと盛られて、おかわりは? と訊かれるだろう。僕は大丈夫、とこたえて、家族の会話は一度止まる。間を埋めるのはたいていテレビのニュース、幾度も持ち上げられては据え置かれる食器の重み。
 居間のほうに見慣れないシャツがかかっていて、これお父さんの? と僕は叔母に訊く。
「ああ、お父さんがね、これをすぐに洗濯しといてって。そんなこと今朝言ってきてね、雨の日なのにね」
 言葉は不満を漏らしているのに、言い方は上機嫌だった。叔母は冷蔵庫を開いたり閉じたりを繰り返している。ただそれだけを行っているみたいに見える。なのに、夕食の準備はみるみる整っていく。
 ぶら下がった黒地のシャツの胸元には鰐のロゴが貼り付けられていて、その緑がワンポイントになっている。鰐は大きな口を開けていて、その口の中は、ほとんど点のような赤がある。それなのに、本物みたいな歯がぎっしりと敷き詰められていて、気味が悪い。
 それに、キッチンと居間のあいだにぶら下がっているから、少し邪魔に感じる。さらには、いちいち鰐と目が合ってしまうような気がして、心地が悪い。
 叔父はまだ帰ってきていないみたいだった。僕は普段叔父が座る席にあぐらをかいてみた。左隣にひとまわり小さな僕がいて、もそもそと食べ物にありつく。箸遣いが未だなっていなくて、ぽろぽろと米粒を膝に落とす。たまに煮物の汁も落として、取れそうにないシミを畳につくる。
 そんな生き物へのあたたかい眼差し。想像するのが難しくて、僕は自分の定位置に少しずれる。しばらくのあいだ、叔父に見られる練習をする。叔父はまだ帰ってこない。
 食事を済ませた後に、すぐにお風呂に入るのはつらい。食べ物が胃で煮詰まり、のどの奥から食べ物のにおいが漂ってくる。食べることは美しいのに、僕の身体が食べ物を消化し、排せつへと向かっている、それを認識させられることにひどく嫌悪感をおぼえる。
 それでも、雨に冷えた身体を暖めたかった。だから、いま僕は湯船で自分の膝小僧を眺めている。身体の中でも、数少ないその曲線を僕はなぞっていく。左から右へ、右から左へ。それが済んだらまた左から右へ、右から左へ。成長とともに、少しずつ変化してきた僕の身体。けれど、膝だけはまだまだ丸い。
 揺れた?
 たぶん、大した揺れじゃない。地震に慣れきった身体は本能的な不安を潜め、僕を湯船に居直らせる。けれど、僅かに波打っていた湯船は、次第に跳ねるようになっていった。正直、強がっているが、少し怖い。特に、お風呂場でこんなに揺れるなんて。こんな狭い箱の中に裸で閉じ込められている。
 今裸のままお風呂場から出てしまうと、まず叔母に見られてしまうだろう。それは避けたい。バスタオルでも巻いてでようか。それとも、いつか映画でみたように水の中に潜っていれば大きな衝撃はいくらかやわらぐはずだ。でも水の量は圧倒的に少ないけど、どうする。
 揺れの勢いが増していき、シャンプーやリンスのボトルは滑りながら浴槽と壁の間で跳ね返りつづけている。掴まるところがバスタブしかなくて、両手で身体をバスタブの内側へと引き寄せた。
 遠くで叔母の声がする。たぶん、叔母も部屋のどこかで何かに掴まって、揺れが収まるのを待っているのだろう。きっと、大丈夫。もう少しこうしていれば、大丈夫。脱衣所に黒い影がみえたと思ったら、間もなく、叔父がお風呂場の扉を開いた。
「大丈夫かっ」
 切迫した様子の叔父は、僕の表情をみてさらに焦っているようだった。僕の無事を確認できた叔父は、姿勢を崩しながらお風呂場へ滑り込んでくる。そして、ちょうど僕と同じような体勢でバスタブに掴まる。
 すぐ近くに、叔父の顔があって、こんなときもぎこちない思いをして、手入れしていない髭に目線をやる。うっすらと白みがかっている。一度、叔父の目をみると、当然のようにこっちをみていて、揺れに耐えているのも相まって、叔父はどこか必死なようにみえた。僕は叔父の目と髭を交互にみていた。その間、たぶん叔父はずっと僕の目をみていた。
 揺れが収まったお風呂場に、服を着た大人と、服を着ていない子どもがいる。僕は透明な湯船になんとか身を隠すように丸まったまま。叔父は、大きかったな、大丈夫か、などといいながら、僕の様子を確認する。
 もう、揺れは、収まっている。
 なかなかこの場を離れようとしない様子の叔父に、僕は身動きもとれず、言葉も許されず、ただいちいち頷くばかりだ。何より恥ずかしいのは、叔父は服を着ているということだった。一方的な防戦なので、叔父の視線はいちいちずるい。叔父が僕のどこをみているのかはよくわかる。何を考えているのかは全くわからない。
 叔父は僕にかける声をすべて出し切った様子で、大丈夫そうだな、もう行くからな、と言った。言ったものの、ぎりぎりまで僕のことをじっとみているように感じる。僕はすべてをみられてはいないだろうと思いながら、うん、と愛想なく呟く。叔父のチノパンに跳ねた水滴が点々。それがお風呂場から去った後に、僕は潜めていた身体をなんとか解放する。
 役に立たない柔らかい湯を両足で蹴り上げる。湯が水面から二つ隆起する。僕は深くため息をついた。

 まだまだ冬の空だ。これだけ陽射しがあるのに、きちんと寒い。窓をピシリと閉めて、叔父が下りてくるのを待つ。
 古時計がカチカチと鳴る。こたつの上に臍の形を持ったみかんが盛られている。
 下半身が熱くなって、こたつから出る、また入る、を繰り返す。これが日曜日の居間。ここには、叔母の姿もない。僕は熱くなった身体を思いっきり開いて、畳の上に大きく広がった。そこから見える景色は、全部傾いている。
 テレビでは最近頻繁に生じる地震について、女性のアナウンサーが怪訝そうな顔を作って話している。この女の人、角度で顔が変わるなと思う。右横からみると、いっそう美に近づく。隣にはたぶん偉い男性がフリップを変えては説明をして、日本がいかに危険な状態であるかを説いている。
 画面右上の白い数字。時刻は二時をすぎたところ。まだ叔父は来ない。使っていないストーブの隣に、お茶が二リットルのペットボトルに入っている。叔父は未だ姿をみせない。まぁいいや、と思い、ペットボトルのままべこべこと飲む。
 少し、揺れた?
 背中で振動を感じる。しばらく経っても、見慣れた緊急地震速報のテロップは流れない。地震に慣れてしまって、地震でなくても地震と勘違いしてしまうことがよくある。今回もその類いらしい。
 僕はテレビの音量を下げて、おおきくあくびをする。この女の人、この角度だと綺麗でなくなってしまった。あぁ、こんなところで寝たことなかったのにな。畳に溶けていく僕の身体。いいのかなと思いながらも、ありのままの自分に従った。
 ぴくっと身体が揺れて、もしかしてと思い、ペットボトルのお茶を見つめる。僅かだが、揺れている。
 箪笥を背もたれにして、テレビ画面へ目を向ける。何も伝えてはいない。思い過ごしなのか、単純にそれがまだなのか。
 箪笥はギシギシと音をたて、スマホが途端に震えだす。いかにも警告といったような音が鳴りだして、僕の鼓動が速くなるのがわかる。
 おい、地震だ、という声が二階のほうから聞こえる。叔父と叔母がとても慌てている様子だ。うわぁ強い、叔父が大声をあげている。
「悠斗!」
 居間の扉を勢いよく叔父が開けた。その向こうで、叔母が階段の手すりにつかまっている。
「今度のは、本当に強いぞ」
 叔父はそう言うと、大きな箪笥を気にしながら、僕に駆け寄ってくる。僕は両手で頭を覆い、身を守っていることを叔父にみせる。
 叔父は立っていられなくなったようで、おおよそ倒れこむように僕に覆いかぶさった。身体に重さを感じて、少し身をよじらせる。叔父はそのまま僕の横に崩れて、僕は叔父の両手に包み込まれた。
 やがて揺れは収まり、叔父の身体の隙間から、ペットボトルが倒れていたり、いくつかの本が落ちていたりするのが見えた。叔父は固まったままで、まだ僕を抱きしめている。身体を離そうとするが、うまく力が入らない。叔父の呼吸は依然として荒い。
「……」
 どっち?
 叔父の胸元の鰐に、何度も問う。

(了)


【初出】
西村たとえ (2018) あなたが好きだと言ったそれに僕はなりたい 子羊出版
https://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B07M8PQ218


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