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心を開いて (ルカ24:33-49,24:25-28)

◆エマオへの道

復活のイエスを描く場面は、福音書それぞれ、いろいろに描かれています。全く同じことはなく、ばらばらであるために、復活の記事への信憑性が議論されることがあります。否定的な見解の根拠にもなりますが、弁護側の根拠もそれなりにあるようです。私はその人自身の受け止め方を尊重したいと思います。
 
ルカ伝をこの春にお読みしています。十字架への道を辿り、復活を前回迎えました。その復活後の出来事として、ルカ伝は特徴ある記事を掲載しています。よく「エマオへの道」と呼ばれる物語です。
 
ルカ伝の復活記事とくれぱ、やはりその「エマオへの道」が際立ちます。2人の弟子が、イエスの死刑を見届けて、がっかりしながらエマオへ下って歩いていました。この十字架刑のことを話していると、イエスがスッと近づいてきて、話に混じります。2人は、イスラエルの解放者として、イエスに期待をしていたようでした。が、無惨にも殺されてしまいます。
 
ただ、2人の話題は、次のことでした。今朝、女たちが墓へ行くと、遺体が消えていた。男の弟子たちもその知らせを受けて、墓に確認に行ったが、やはりイエスの遺体がないことが分かった。――二人がそんなことを話していたのを聞いて、イエスが、その正体を隠した上で、キリストなるメシアがどのように来るか、預言の書と旧約聖書について書かれてあることをレクチャーします。
 
村に着くと、2人はもっとその話を聞きたくなりました。それでその人を引き留めて食事をしようとしますが、2人は、パンを裂くその姿を見て、それがイエスであることに気がつきます。ただ、その瞬間、イエスの姿はもうそこにはありませんでした。
 
そうか、いま自分たちはイエスに会っていたんだ――2人が気づいた、そういう場面の記事です。この場面を、光と影の画家レンブラントが描いた、あの絵が頭に浮かびます。
 
このとても美しい場面は、復活後の説教の良き題材になります。多くの説教者がここを取り上げて語ります。けれども、この2人がその後ある行動をとったところについては、あまり好んで語られはしません。生来ひねくれ者の私は、2人のその後の様子について、そこから語り起こすことを考えました。共に味わい、そこから語られる神の心を受け止めたいと願います。
 

◆イエスを恐れる

33:すぐさま二人は立って、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34:主は本当に復活して、シモンに現れたと言っていた。
 
2人は、立ちます。「立つ」というのは、行動を起こすときの決まり文句です。イエスに会ったのだ、という感動そのままに、2人はエルサレムに踵を返します。そこには、ユダを除くイエスの弟子の使徒たち、またその他の仲間たちが集まっていました。
 
思えば、この2人は、女たちが墓に行ったことや、ペトロのみならず複数の仲間が墓を訪ね、亜麻布だけが残された、空の墓を確認した事実を知っています。しかも三日目が今日だと言っていましたから、その日のうちにその話を聞いていたのです。よほど使徒たちと近い間柄にいる弟子であるわけです。自分たちが、消えていたそのイエスに会った、しかも話をした、などという大ニュースを、仲間の許に知らせに行くという気持ちは、よく分かります。
 
すでに泊まろうとしている夕方の時刻から、夜中に戻ったのか。「すぐさま」とありますから、だんだん日が暮れていく中を、急ぎエルサレムに戻った、というようにルカは記しています。危険だったことでしょう。また、城門が閉じられてはいなかったのか、私は心配します。でも、あまり気にせずに進みましょう。
 
仲間たちは、「主は本当に復活して、シモンに現れた」と盛り上がっていました。不思議です。シモンというのはペトロのことですが、ペトロは空の墓を見ただけではなかったのでしょうか。しかし、シモンに現れた、と騒いでいます。驚きながら家に帰っただけのペトロに、果たしてイエスはすでに現れていたのでしょうか。少なくともルカはその点を描いていません。
 
ただ、戻ってきた2人は、自分たちがただの幻覚を見ただけではないらしい、ということの確信を、その「現れた」から得たようにも見えます。そして、自分たちがまざまざと見て、イエスとの時を過ごしたことを、生き生きと語ったことでしょう。
 
さて、それを聞いていたペトロの表情は、どうだったでしょうか。ペトロがただ空の墓しか知らないとすると、この2人のほうが、明らかに凄い体験をしています。ペトロは、自分の心の中に純粋に喜ぶ気持ちだけだったでしょうか。妬ましい気持ちはなかったでしょうか。それは邪推の極みでしょうか。
 
しかし、イエスはそういう心を起こさせる隙を与えませんでした。
 
36:こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 
イエスがその場に姿を現しました。「平和、あなたがたに」との挨拶の言葉付きです。ヘブライ語ならば「シャローム」という「平和」の語によって、「こんにちは」の挨拶にもなりますから、これも言うなればただの挨拶だったのでしょう。しかし、「平和」という言葉を意識するところに、信仰の問題が潜んでいる、とも見ることができると思います。
 
イエスが現れたことは、ペトロにとってもありがたいことです。これでもう、ここにいる誰もが、確かにイエスと出会ったことになるのですから、そこは素直に喜びたいと思うのです。
 
このとき、「真ん中に」立ったという意義は大きいと思います。私たちにとっても、イエスは、私たちの中心にいるのです。中心に、牧師や教会の建物があるわけではないのです。ヨハネ伝での、洗礼者ヨハネの言葉が頭を過ります。
 
ヨハネは答えた。「私は水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。(ヨハネ1:26)
 
尤も、もはや「知らない方」とは言いたくないのではありますが、私たちがこの方の全貌を知っているわけではない、というのは確かでしょう。
 
ただ、ペトロの心理がどうだったかは知りませんが、このときこの現れたイエスについて、実は彼らは単純に喜んだのではありませんでした。イエスの復活を直ちに信じた、というようなわけではないのです。
 
37:彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。
 

◆触れていない

イエスには、分かっていました。彼らがうろたえているのが。知らせたい復活の知らせなど、いま受け容れられる情況ではない、ということは明らかでした。イエスにとり、彼らの心の中にあるものは、「疑い」なのでした。
 
38:そこで、イエスは言われた。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。
39:私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」
40:こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
 
私はただの霊であるものではない。幽霊ではないのだよ。幻でもないのだ。それが復活だ。それ、このように触ってみなさい。肉体があるだろう。骨もあることが分かるだろう。イエスがそのようなことを述べて自分に触らせようとしますが、彼らはまだ、復活を信じている、と言える状態ではなかったのです。まだ肝腎の復活を、そのままには信じることができていなかったのです。
 
それでイエスの出た言動は、「触ってよく見なさい」というものでした。「触れ」――これはヨハネ伝ではありますが、墓を訪れたマグダラのマリアに対して、「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハネ20:17)と言っていたのを思い起こします。ルカはそれを踏まえてはいないものの、大胆にも、復活のイエスが自分を触れ、と弟子たちに迫った様子を描きます。
 
さて、地上で共に旅をしていたとき、イエスは自分の体を、誰かに触らせたことがあったでしょうか。イエスからペトロの足を洗うといったことはありました。イエスの愛する弟子が、誰が裏切ろうとするのは誰のことですか、とイエスに尋ねたとき、「イエスの胸元に寄りかかったまま」(ヨハネ13:25)であったことが記録され、そのことは復活後の21:20でもこの場面が再現されています。胸に接していた、というように読めます。
 
しかしこの復活のイエスが現れた場面では、イエスが「触れ」と言った後に、誰かが「触った」という記載がありません。触ったかもしれませんが、ルカは書いていません。このことは、ヨハネ伝で、復活したとは信じられない弟子のトマスが、イエスが傷に手を触れよと言ったときも同様です。そのヨハネ伝でも、トマスが「それでは」と触って確かめた様子は描かれていないのです。
 
これは、記者が、意識して触った場面を描かなかったことを意味しているように理解できます。多分に、触っていないのです。なぜなら、福音書の読者は、だれひとり、このようにイエスに触ることができないからです。しかし、福音書は、その人たちに、信じるように迫る言葉を書いたはずです。触れないのなら、信じられないではないか、というような発想になってはいけないのです。
 
私たちは、イエスの肉体に触ることがありません。でも、触らなくても、信じるように、と促されているのです。見て信じるようなことは、ヨハネ伝が度々退けています。むしろ、信じるならば神の栄光を見る、という方向の話をイエスは口にします。そして、このトマスには、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言っています。
 
福音書は、いまの私たちにも、信じることの意義を、こうして教え、私たちに迫ってくるように書かれているのです。
 

◆教会へのリンク

41:彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていると、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
 
面白いのは、弟子たちが、まだ信じていなかったことです。まだ信じられず、不思議がっていたのです。イエスがどうやら肉体を伴ってそこにいることを示すと、さすがに喜びは覚えていましたが、まだ信じられずにいたわけです。
 
そこで、イエスは目の前で食べて見せようとします。食べるということは、ただ肉体がそこにある、というだけではなく、現に生きている人間と同じことができること、正に生きていることを証明する、ということになるのでしょう。
 
ヨハネ伝でも、この魚の食事の場面がありました。ここと類似点を憶えます。もしかすると、ルカもヨハネも知ることができた、何か共通な資料があったのではないか、と私は感じます。それは、従来の仮説では説明できなかった、なんらかの信者グループ同士のつながりか、生き証人の残した記録など、私たちは到底知り得ないルートでの、イエスの記録や記憶のなせる業ではないか、と密かに空想しています。
 
イエスは魚を食べた。この「魚」が、そのギリシア語の綴りから、イエス・キリストを告白する合言葉のようなものであったことについては、すでに触れておきました。「魚」は特別な存在なのです。この魚を食べるということは、イエス・キリストを食べることにつながります。つまり、聖餐です。
 
聖餐は、もちろんパンとぶどう酒ということに決まっています。けれども、教義として組織的教会がそれを定めるに至る前には、このように魚が主役であってもおかしくはないと思います。実際、私たちがいまキリスト教のシンボルとして掲げる「十字架」というものは、聖書執筆の頃には、なんら象徴の役割を果たしてはいなかったはずです。忌まわしいものではあったかもしれませんが、そしてパウロのように、その十字架をキリストと共に死ぬ律法の行き着くところに見るような「救い」の根拠に置くことはあったかもしれませんが、仲間のシンボルとして「十字架」のことを考えてはいなかった、としか思われません。
 
魚を食べる。イエス・キリストの体を食べる。教会の、信仰のひとつの集約のために、魚を食べることがこのように大切に見なされたのではないか、と問うてみる価値はあるのではないでしょうか。
 

◆心を開く

福音書は、何のために書かれたか。もちろん目的というものは多様でしょう。しかし、信仰共同体、あるいは教会と便宜上呼んでおきますが、教会のため、と見るべきだと私は考えます。これで人が救われるように、というのはもちろん正しいのですが、それも教会のためと言えば教会のためです。
 
それまでばらばらだった信仰箇条なり、イエスについての情報を、ひとつの形にまとめることは、世代の変遷を見越すときに、どうしても必要なことです。また、再臨がいまにも迫っている、という意識が一段落したとき、つまりイエスの再臨はいますぐではない可能性がある、という信仰の仕方が始まったとき、資料をひとつにまとめることは、やりがいのある仕事である、との認識が始まったのではないか、とも思います。
 
伝えられていたイエスの言葉、書き遺されていたばらばらのイエスの言葉、使徒たちの記録、そうしたものがまとめられます。中でもイエスの言葉は、いまの福音書のほかにも、「トマスの福音書」のような史料を見ると、語録としてまとめられていることを知ることができます。
 
新約聖書なるものをつくろう、という掛け声があったかどうかについては、私は留保します。しかし、旧約が、律法と預言者の書と詩編でできている以上、その実現としてのイエスの出来事を、明確に位置づけておくことも必要です。そのために書かれたこのルカ伝でも、イエスの台詞の中に、それがこっそり現れています。
 
44:イエスは言われた。「私がまだあなたがたと一緒にいたときに、語って聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることは、必ずすべて実現する。」
 
いま、イエスの弟子たちが、明確に言うなら、教会が、これをひとつの権威としてここにまとめ、示します。このイエスは、教義をここに語りますが、その前に、イエスがどのように言われたか、いま留まりたい部分があります。
 
45:そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心(ヌース)を開いて、
46:言われた。
 
ただ信じるべき信仰箇条をここに書き連ねるばかりではありません。その言葉を信じるために、心を備えさせます。イエスは、仲間達の「心を開いた」のです。これは、このメッセージで最も注目したい部分です。
 
「心」、長くなるので詳述はできませんが、それは美しい日本語だと私は捉えています。西欧語では、様々な言葉を使って表現する、精神的作用を、たった一言ですべて賄ってしまうのです。英語では、heart, mind, spirit, soul などと区別するそれぞれを、日本人は全部「心」という言葉で伝えることができるのです。
 
それは、ギリシア語でも同じです。「カルディア」、「ヌース」、「プシュケー」に絞ってみても、ニュアンスの違いが味わえます。ここで使われているのは「ヌース」です。それは、心の働きのうち、どちらかというと「理性」や「知性」の方に傾いたものを示すのが通例です。
 
イエスが弟子たちの心を開いた、というのは、熱狂的な感情で信じるなどというものではなくて、落ち着いて冷静にこの事態を捉えた場合でも、よくよく理解できるような、一定の信仰箇条をここに示した、というような方向性で考えることができるように見えます。信仰の入るポイントは、理性に適わないような盲信でもないし、人間の欲求でもないし、ただ物事を筋道立てて考えるならば分かるような営みの中にある、という一面を、教えてくれるような気がしてならないのです。
 

◆証人となるために

46:「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47:また、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる。』
 
では、これを信じたとしましょう。ルカ伝も、こうしてイエスが信ずるべきことを明確に示しました。教会は、これを軸に、信仰するように働きかけることになります。すると、次に信徒は何をすればよいでしょうか。ここでのイエスが、続けてまとめています。
 
48:あなたがたは、これらのことの証人である。
49:私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい。」
 
信じたら、次は「証人」だという自覚を得ることになる、というのです。「証人となりなさい」ではなくて、「証人である」と決定づけています。「証人」という言葉についても、これまで幾度かお伝えしたように、「殉教者」を意味することがあるのでした。命懸けの行為に出る者のことです。イエスを信じる者は、その信仰のために死をすらものともせず、イエスを指し示し、伝える者となる、というのです。
 
それは、父が約束されたものを送ることで、エンジンがかかります。ルカはそれを聖霊と呼び、ルカ伝の後編である「使徒言行録」のはじめで過激なシーンを描きます。この点も、ヨハネ伝が聖霊を送るということを、丁寧にイエスに語らせていたことと比較可能でしょう。
 
聖霊が降るのを、イエスは約束しました。しかしそれは、人間の側から呼ぶことも、受けることもできません。「高い所からの力」が必要なのです。人間の外から、上から、それは注がれます。神から、もたらされます。聖霊は、神から人に及ぶ、神そのものでもある力です。
 
注意したいことに、だから「都にとどまっていなさい」と言われています。信仰は、自分の思いを実現するために、自分中心に動き回ることではないようです。留まるのです。じたばたせずに、主が働かれることを待つのです。主に留まるのです。イエスという幹につながって枝として留まる、ということを、ヨハネ伝は印象的に語っていました。
 
私たちは、神から注がれる力を待ち、神を見上げて祈ります。神の約束を、そうやって待ちます。やがて、私たちは力を受けて、主の証人となります。命懸けでこの救いの神を伝える、神の証人となります。いえ、いまもうすでに「証人である」というのです。
 

◆信じられないでいい

復活節に私たちは、神からもたらされる恵みを受けようと、天を見上げておりました。今年のこの時期は、ルカの視線に沿って、イエスを見つめ、イエスに従おうと努めてきました。ルカの表現の小さなところに目を留めて、どうしてそのような書き方をしたのだろうか、ルカは何を知っていて、何を伝えようとしたのかを、受け止めようと願いました。
 
聖書には、私たちの気づかない仕掛けがたくさんあるのだろうと思います。無数の伏線が盛られているのだろうと思います。映画にも、よくそうした伏線が仕掛けられています。それは、映画の結末を知ってから、もう一度初めから見ると、気づきます。ああ、これが結末ための伏線だったのだな、と。福音書もまた、そのように気づけ、信じるのだ、という思いをこめて描いているように思えてなりません。
 
マルコ伝は、墓を訪ねた女たちが、最後に、天使と思しき若者に、復活のイエスは先にガリラヤへ行っているから、そこに行けば、弟子たちはイエスに会えるだろう、という言葉をかけられます。これは、読者にしてみれば、マルコ伝冒頭の、ガリラヤの場面に戻れ、という導きとなっています。いまイエスの十字架と復活の様を知った読者は、いまいちどこの福音書の最初に立ち帰り、イエスが何のために、何を思ってこの地上を歩んできたか、気づくといい、と言われているかのように思えます。二度読めば、気づくだろう、と。
 
私たちもいま、振り返りましょう。2人の弟子が、エマオへの道でイエスに出会いました。それは確かに感動的です。自分たちが心燃やされたことで、それがイエスだったと分かったとき、どんなにうれしかったことでしょう。しかし、肉体のイエスを見た、という喜びはあったにしても、まだ信じ切ってはいなかった様子を、私たちは見てきました。信じた喜びという段階にまでは、至っていなかった、と解しました。
 
私たちは、イエスを信じています。信じているものと考えています。でも、自分には信仰がないのではないか、そのように思うこともあります。信仰が足りない、というのみならず、自分には全く信仰というものがないではないか、と慄くことがあるのです。ありませんか。いつも自分は信仰たっぷりで、見事な信仰生活をしている、と思いますか。私はむしろ、そのように思うほうが、危険だと考えます。その人自身のためにも、また他人や社会のためにも、それは危険です。
 
だから、信仰がないのではないか、と嘆いても、当然のことなのです。確かにそれは認めて然るべきことなのです。だったら、この弟子たちの姿を自分に重ねることができます。自分では信じていると思っていたつもりでも、いざイエスが現れたとたんに怯んだ弟子たちの姿に。
 
信仰がない、と悲しむのは何故でしょう。「自分は信じているはずだ」という理解を前提しているからではありませんか。でも、「自分には信仰があるはずだ」というような前提は、なくてもよいのではないでしょうか。
 
だから、私たちは今日も聖書を読みます。聖書から何かを聴こうと求めます。聖書は難しいと思います。しかし、数学の問題を解くように、聖書を読む必要はありません。あなたにはあなたにだけ聞こえる、神の声があるのです。あなたにしか響かない聖書の言葉があって、あなたにしか受け取れない仕方で、その言葉を迎え受けることができるのです。
 
聖書を読みましょう。神からの命をそこで受けることができるように、神が力を与えてくださいます。神が、聖書が分かるように光を照らしてくださいます。イエスが、そうなるように私たちの心を開いてくださいます。そうやって、私たちは聖書を知ってゆくのです。聖書を通して、神と、出会ってゆくのです。
 
からしだねほどの信仰を求めて、それが与えられるのを待つがよいのです。私たちはすでに、イエスのために死ぬことすらできるような、証し人であるのですから。

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