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Facebookだけではもったいない

Facebookに、忠実に投稿をする教会の牧師がいる。教会や自身の運営する行事の宣伝もあるし、少々おちゃらけた記事で楽しませてくれることもある。中には、きれいな花などの写真を掲げて、聖書の言葉や、それについての簡単な解説を、連日誠実にアップしている人もいる。いい記事が多い。伝道の目的であるのだと思う。聖書の言葉は、人を救うことができる。困難にある人や、道を求めている人に、光を投げかけ、立ち上がらせる力をもっているから、聖書の言葉を掲げるというのは、すばらしいことだと思う。
 
だが、Facebookは、そのような宣伝としては、必ずしもよい媒体ではないのが実情だ。特に若い世代には、見向きもされていない、と言ってよい。実名を出すのが基本の場は、交友には悪くないし、懐かしい人との再会となると絶好のチャンスにもなる。だが若い世代には魅力がないらしい。利用者の平均年齢は高くなり、年配世代の場となっている、というのが近年の傾向である。
 
教会を宣伝しようとする目的がある場合に致命的なことは、Facebooが、いわば会員制のサロンのようなもので、Facebookのアカウントをもたない人は、どの人の記事も基本的に覗くことができない点である(少々ややこしい手段をとれば、意識的に見ることができないことはないにしても)。Facebookの記事は、Facebookメンバーだけへのメッセージでしかないのだ。
 
先ほどの、Facebookで忠実に聖書の言葉を紹介している人は、調べるとInstagramのアカウントもつくっていた。が、つくっただけで、ひとつも投稿していない。これはもったいない。Instagramのほうが、遙かに多くの人に、しかも一般の人々に見てもらえるはずである。
 
実を言うと、X(ツイッター)のほうが、自由に見られるので、知らない人の目に触れる機会はより多くなるが、よほど魅力がないと目に留らないのも事実である。その点、Instagramであれば、開く人は写真を見るので、魅力的な写真があれば目に留る可能性はより高いと思われる。アカウントをもっているのであるから、この場合は、Facebookに載せている記事を、そのままInstagramに上げればよいのだ。字数制限は、140字などということはなく、2200字もあるので、聖句とその解説くらいならばたぶん間に合うはずである。
 
以前流行ったブログというものも、いまなお健在である。芸能人のブログには多くのフォローがあるし、ハッシュタグ次第では、素人のブログも、訪ねてきてくれる人は決して少なくない。また、考えや意見をまとまった形で述べるnoteのような場もある。ここには、長い文章をむしろ好んで求める人が集まるので、説教原稿を全部掲載しても、読み手市場がある、と考えてよいように思える。不特定多数の人の目に触れる機会がある、という意味では、こうした場は、Facebookの比ではない。
 
Facebookは、Facebookのアカウントをもっている人は自由に覗けるが、流れてくるのは友達である。従って、聖句を送っても、読むのは基本的に友達である。しかし、牧師の友達というのは、殆どが牧師仲間であるか、教会の信徒である。信徒を励ますというのはそれでよいのだが、キリスト教を伝道しようというときの道ではないと言わざるを得ない。
 
私は、Facebookには一定の目的をもって記事を載せているので、誰がどう見ようが見まいが、気にしていない。自分の文章であれば同一人物が様々な場に同じ記事を公表してもよいわけで、結論から言えば、あちこちの媒体で、全世界に発信していることになる。狭いサロンの中で呟いているわけではない。だからこそまた、法的に問題があるかどうかには気をつけているし、個人情報を広めてしまわないように、少しは考えている。もちろん、それで十全とは言えないし、拙いことをしている可能性もある。
 
子どもの顔を丸出しにしたり、そのプライバシーを簡単に分かるように示すようなことはしてはいけないだろう。団体や個人を「批判」することは言論の自由の範囲内だろうが、無根拠に、自分の思いこみだけで誹謗中傷を繰り返すようなことはしてはならない。ヘイトスピーチに相当することを、平気で連日続けているような「自称キリスト教徒」もいるのが実情だ。著作権についても、厳密に言えば私も拙いことはしてしまっているのだが、事実上許容範囲ということに甘えている。こういうのは自分では自分に甘く判断しがちであるので注意を要するものではある。
 
教会の名前を聞いて、そこに行ってみようか、と思うとき、まず何を調べてみるだろうか。SNS関係で検索をする人が多いかもしれない。が、そもそもどういう教会か、を調べるには、教会のウェブサイトを見てみることが多いと思われる。そこに、1年前の礼拝説教で更新がストップしているとか、高圧的な文字や言葉が掲げられているとかすると、訪問者は引いてしまうだろう。
 
そこにも、Facebookに挙げていた美しい写真のどれかを掲げて目を惹くようにし、Instagramなどアクセス可能なSNSの入口を置いておくと、何かと好い印象を与えるのではないだろうか。日々、きれいな写真や聖書の言葉、祈りの言葉などをFacebookだけにアップしている方々は、ぜひその魅力を、もっと広く発信して戴きたいと願っている。

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