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『命こそ宝 沖縄反戦の心』(阿波根昌鴻・岩波新書249)

礼拝説教でその人の名を教えられた。生まれは1901年だが、とくに戦後の沖縄を闘った人である。私は沖縄戦についてはかなり調べたが、戦後の闘争については調べたことがない。しかしいつかなんとか知りたいとは思っていた。系統的にこれを知ることができたとは思えないが、本書はよいきっかけとなった。
 
岩波新書ではすでに、『米軍と農民』という本を世に問うている。1973年のことである。その後の歴史を経て、いままたここに、その後のことを踏まえて描く。テーマは、沖縄の人の心として、特に夜に知られるようになった「ヌチドゥタカラ」、すなわち「命こそ宝」という考えでもあるが、それを抽象的に記したわけではなく、実際に自分が、あるいは仲間たる反戦地主たちが、歩んできた道がここに明かされるというわけである。
 
その活動の過程をここに並べることは遠慮する。項目としての過程を無感情に並べても、本書そのものを紹介したことにはならないと思うからだ。ここにあるのは、とりあえず一人の著者の、としておくが、闘った人物の真摯な姿勢であり、人生である。しかも、理念と信念に基づきながらの、筋道の通った主張である。そしてそこに明らかにされたのは、政治の世界の、命を大切にしない思惑と権力である。
 
確かに、個人の視点からの主張であるだろう。大局的に、政治というものは見渡すわけであり、具体的に言えば、ここではアメリカとの関係というものがある。個人の尊重などをしていたら、国際的な政策が失敗するのだろう。だからこそ、言うなれば理屈の通らないことをし、また反戦地主という排除したい面々をわざと苦しめるような措置を次々と繰り出すのであろう。
 
そこへ、著者は信念を貫く。これは命を守ることなのだ、と。土地を奪われ、また土地の利用には莫大な金額を払わされ、時に仲間の命が奪われた。著者は、それほどの教育を受けたわけではなく、農民の立場から立ち上がっただけなのだが、それでも法律を学び、訴状ひとつに数日をかけるなどしながらも、法的に筋の通ったことをきちんと営んでいる。そのことを本書は一つひとつ辿ってゆく。
 
先の著書が、米軍統治下の沖縄のことであるとすれば、本書は、日本に復帰してからのものである。だからまた、日本政府のしたことが次々と明らかにされてゆく。
 
土地は伊江島。土地は伊江島補助飛行場内にあった。しかし、基地のために賃貸借をしろとの強制に応じなかった。訴訟にまで至るが、結局敗訴となる。それでも、平和への願いは行動の中に続けられる。
 
もちろん地元の人からも煙たがられることがある。天皇制を支持する人々から抗議が起こる。しかし著者は怯まない。基地は戦争の準備をするもの。また戦争を起こせば、あなたがたの愛する天皇は真っ先に狙われる。この運動は、あなたがたの愛する天皇を守るための運動でもある。こう叫べば、相手たちもそれ以上は言えなかった、と記す。
 
平和のためである。自分の正しさを証明しよう、というような精神ではない。だから日本が「加害者」であったことを蔑ろにしてはならない。被害者意識でいるだけであったら、つまり加害者として省みることがなかったとしたら、またそれを平気でやってしまうだろう。原爆を落としたほうを責めるだけでなく、落とさせたという角度から見ることも必要ではないか。確かにこれは、原爆の被害者からすれば、残酷な言い方ではある。だが、これは沖縄の人の言葉である。沖縄県の人の死者は四人に一人と言われるから、辛い広島の人々にも共感する思いが生まれてくださるだろうか。地上戦の残酷さや、日本や日本軍に殺された阿鼻叫喚の出来事をも経験した人々が口にする、「命こそ宝」という考え方を、表向きの言葉だけで軽々しく判断してはならないとすべきだろう。この言葉は、この反基地運動において、とくに広く知られるようになったのである。
 
この阿波根昌鴻氏は、若くしてキリスト教に出会っている。そこで、本書でもその小さな証しのような言葉もある。聖書を時々引用する。とくに米軍に対して話をするときには、聖書を用いて話をすることもあったという。聖書にある言葉に反して、どうしてあなたがたはそのようなことをするのか、と。しかし、キリスト教こそ正しくて他の宗教はだめだ、というような言い方は決してしない。そういう言い方や考え方をしていたら、他の人々と対話ができない。宗教をどうしよう、ということではないのだ。ただ、この人は聖書に立ち、そして専ら聖書だけの信仰とは少し異なるかもしれないが、聖書が語る平和というものを、かたく信じているということになるだろう。
 
農民のために尽力し、幾度も学校や組織を立ち上げて、世のため人のために力を使い切った阿波根昌鴻氏は、101歳で世を去る。だが、その生き方は、このように遺り、伝えられ、私たちの中にまた生きることを求めている。ご立派な方であった。が、それをどう受け継いでゆくのか、私たちが問われている。平和を本当に造る気があるのかどうか、と。

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