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『書物としての新約聖書』(田川健三・勁草書房)

いつか読みたいと思っていた。ただ、手が出なかった。最近では8000円+税である。分量があることは厭わないが、先立つものがとにかくない。古書も決して安くはならない。価格がどうなのかを、ずっと見守っていた。ここでは明かすが、私はこの度、これを1400円で手に入れたのである。送料込みで1500円を少し超えるだけの価格提示に対して、少しばかりポイントを使ったのだ。それも、線一つ引かれていない、カバーと天にシミがあるためらしかったが、どこにシミがあるのだ、というほどの美しい本だった。
 
そんなことはどうでもいい。中身である。田川健三氏の本は、読み慣れている。幾つかの単行本と、雑誌の特集号、新書などに加え、ライフワークとも言える『新約聖書 訳と註』は、出版される瞬間に買って読んでいる。このときには、他の本を買い控えるなどして、無理してでも購入した。どうやらこの『新約聖書』は、本書の出版のときには、まだ予告もできない情況だったらしい。いつかそうしたこともしてみたい、という希望は本書に書かれてあったから、構想はあったのだろうが、書きますよ、というふうではなかった。だから、あそこにつながるものなのだろう、ということを感じながら読み進んでいった。
 
索引などを除いても、700頁を超える。それでも、著者に言わせれば、当初の原稿から2,300頁を削っていまの姿となったらしい。
 
理由は分かる。だらだらと喋るように書き連ねられているからだ。否、それは失礼な表現だろう。遠慮会釈なく、ずばりと事態を評するために、口で講義しながら説明するというスタイルの文体であるためである。これは、一読しただけですいすいと進むことができるというメリットをもっている。何を言いたいのだろう、と読み返したり、難しい言葉の意味を考え込んだり、この説明はどういう論理で書かれているのだろうと悩んだりすることが、一切要らないのである。聖書について、とことん調べ上げた解釈というよりも、ここではあくまでも聖書という文献についての一定の事実を並べているわけだから、実に理解しやすい教科書を読んでゆくような快感がある。但し、歯に衣着せぬ書き方だから、言おうとしていることも全く誤解なく伝えることに成功しているし、相当にきつい評価が明確に下されているわけで、いわば個人的な考えががんがんぶつけられていると言える。いちいちそれに反抗する気持ちさえなければ、言っていることは実に分かりやすいわけである。
 
これまでの田川健三氏の書からすれば、だいたいどこかで言及されているようなことが、整然とまとめられていると言えよう。従って、私にとっては目新しいことが並んでいるという印象はなかったが、特に西欧語訳の聖書の背景については疎かったので、その成立事情や翻訳方針、また翻訳同士の関係などが詳しく書かれてあったことは、有り難かった。アメリカのカトリック訳が優れているという点については、大いに参考になり、早速ダウンロードでそれを入手した。さすがに英語だけで全部通読するというほどの能力は私にはないが、何かのときに開いてみようと思うし、その優れた解説にはぜひ目を通してみたいと思った。
 
日本語訳聖書についても、その事情と評価が述べられている。もちろん新共同訳の全盛期であるからそれが中心となるが、著者の評価は厳しかった。確かに、『新約聖書』でも、かなり露骨に批判していた。だが、英語をテキストにしている側面があり、突貫工事のようにつくられた口語訳を、新共同訳よりも良いとしていたことには、少し驚いた。一つひとつの訳文を全部比較してのことだから、決していい加減な評価ではないはずだ。そこで私も、次に開いた竹森満佐一先生の説教集には、用いられている口語訳聖書を横に開いて味わうことにした。また、新改訳聖書については端から相手にしていないことは分かって居たので、ここには僅かにも触れられないことも、それはそれでよいとは思った。但し、新共同訳と聖書協会共同訳と、そして新改訳聖書を比較して訳文を検討した本があって、それを見る限り、新改訳聖書が良い訳をしていると認められる場面も幾度かあったので、全く相手にしないというのも、もったいなかったのではないか、という気もした。但し、個人の研究にはもちろん限度があるために、そこまで手が伸ばせなかったのだろうとは思うし、与えられた時間にも限りがあるから、そこまで著者に要求することが適切であるとは私は思わない。
 
ここには聖書という文献について、何か知りたいと思ったときには実に便利な資料があることになる。だからもちろん、索引が充実しているし、目次を見るだけでも、どこを見ればよいか一目瞭然である。章立てだけはご紹介してみよう。まず「正典化の歴史」「新約聖書の言語」「新約聖書の写本」そして「新約聖書の翻訳」となっている。「言語」については、ぼんやりと聞いて知っていたこともあったが、きめ細かく言語的背景を学ぶことができて喜んでいる。「写本」は、厳密に調べることのない素人では知り得ないほどの専門的な内容を、素人相手にしてくれているのでありがたいと思った。時折具体的にその写本による違いを寄り道しながら述べるが、そういうところが実に面白いので、字のポイントを落としたところは読み飛ばしてもよい、と著者が後で言っているけれども、これを飛ばしたら楽しみが半減すると私は思うので、これからお読みの方はしっかり読むべきだと強くお薦めする。尤も、いま改めて開くと、この「写本」のところでは、本文の違いについては本文として大きな文字で書かれてあったから、どうやらこれは、私の思い違いであったようだ。
 
これだけ聖書を知り尽くしている著者であるが、一応信仰者ではない、と公言しているのはもったいないように、ずっと思っていた。だが逆に、信仰者ではないからこそ、聖書をとことん文献として適切に読んでゆくことができたのかもしれない。しかし、自分は「神を信じないクリスチャン」である、という言い方をしたことがあるところからは、「神はいない」と口にしていても「クリスチャン」だという結論がそこにあるところを、私はひとつの深みだと見ている。どんなに口汚く「敬虔」の真逆を実践していても、確かに聖書を愛しているということではないのか。こんな仮定は不遜極まりないが、私がもし神の立場だったら、著者を抱きしめることだろう。

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