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『別冊100分de名著 宗教とは何か』(釈徹宗・最相葉月・片山杜秀・中島岳志・NHK出版)

テレビでおなじみのシリーズだが、2024年の年頭に放送された番組から半年後、こうした書籍という形で改めて世に問うことになった。もちろん番組そのものの再録ではない。四人の論者が、それぞれの立場から、それぞれの視点によって、「宗教とは何か」について語っている。
 
サブタイトルは「「信じること」を解明する」となっているが、的を射たまとめであるだろう。宗教団体を問うたのではない。個人の信条についてである。そして、「はじめに」で番組プロデューサーが、これまでになかった「斬新で奥深い内容」と自負するような言葉を呈しているが、その宣伝に恥じない内容になっていると私は思った。
 
まず釈徹宗氏が、フェスティンガーの『予言がはずれるとき』をベースに、特にカルト宗教が陥った「予言」という現象について論じている。各論者は、本論の後に「考察」として、総括するような見解を短くまとめているのだが、ここでは「成熟した宗教的人格」ということについて考えている。そこで指摘された「信仰の加害者性」ということは、私もふだん言及している問題である。信仰団体に入ることで、自分は何をしてもよいような特権をもつわけではないはずなのに、そのようになってしまうのだ。だから「常に自分自身のありようが問われ続ける」のでなければならないのである。この「考察」だけでもよいから、宗教関係者のどなたもがよく読み、心に刻んで戴けたら、と願う。
 
最相葉月氏は、『証し』という、キリスト者が聞き出せないような信仰についてのインタビューをまとめた本でとくに知られるようになった。ご本人は信仰を表明しているわけではないが、聖書はもちろん、教会にも触れ、数年にわたるインタビューを完遂している。ここでは、『ニコライの日記』を開いて、ロシア正教会の宣教師ニコライと日本との関係に徹して論じている。焦点が明確になり、力ある論述となった。日本にキリスト教を本気で伝えようとするにはどうあるべきか、いまなお考えなければならないことが満載だと感じる。その「考察」で明らかにされていたのは、田川健三の聖書塾に参加している、ということだった。田川氏もそうだが、聖書を読むことはそのまま「信じる」とイコールであるわけではない。「聖書は、「信じる/信じない」の狭間で揺れ動く者たちにとっての「対話の相手」なのだ」との結びが印象的である。
 
音楽評論家という一面と、政治研究者という軸とを併せ持つ片山杜秀氏は、ひたすら『大義』という本と向き合った。戦争の時期に130万部を超えるベストセラーであったという本である。陸軍軍人の杉本五郎が、戦死する十日前まで将校教育のために綴ったものが本になつただけなのだが、これが日本中を席巻した。いまでも戦時中のドラマや映画をつくるときに描かれる当時の人々の精神状況は、正にこの本に書かれているものがステレオタイプになっている、と言ってもよいのではないか。しかし、日本人はこれを「自主的に」読んでいる。ここがポイントである。天皇のために死ぬことの必然性を、自分の信念として語ることを非難するつもりはないが、それを全国民規模で受け容れたのは、日本人の考え方の問題であったことになる。そこには「一神教的絶対者の観念」が浸透した事実があることを、私たちは見なければならない。そして「考察」では、宗教が「為政者に利用されてしまう可能性」を警戒しなければならないことを訴える。それは、「時代の空気や要請」がそうさせるのかもしれない。そうなると、たんに思想統制や強制だけの問題ではないことになる。
 
最後は中島岳志氏による問いかけだが、遠藤周作の『深い河』を取り上げる。遠藤周作の最後の長編であるが、そこには「宗教多元主義的一元論」が描かれているという。遠藤自身キリスト教の立場に身を置きながら、幼いころからのその信仰と闘うかのように、小説では様々な問いかけをしてきた。カトリックから禁書扱いされるほど大胆に論じた本もあるのだが、それは組織的信仰にはそぐわなかったにしても、キリスト教への問いかけとしては非常に意味あるものとされていたと言えるだろう。インドを舞台にしたのは、日本の優位性を出したくなかったのだろう、という推測と共に、ヒンディー語の文法構造の中に「与格」というものがあることの指摘が面白かった。主語が行為者として明確に立つヨーロッパ語の構造とは異なり、人の意志によらずに成ることを原点とする世界観がそこにあるという。日本語でも「自発」の助動詞「れる・られる」があるが、それにも通ずる捉え方である。「考察」では、それを「他力」ということと重ね合わせて指摘している。そして遠藤には、「祈り」は「自力」のように目に映っていたのではないか、と推測する。
 
それはそれでよいのだが、私はそこに、一つの危うさを覚えて仕方がなかった。自分の非力さをまずそのままに認める、ということの必要性は否定しないのだが、どこか「なるに任せる」のように聞こえてしまうことの危うさである。悪しき者が世に働く。そして世間の風が、そのような一色に染まろうとするとき、それさえも「そのようになる」という態度で受け容れてゆくことでよいのかどうか。自分ですべてをコントロールできないから、戦っても無駄だ、というふうな社会観では、いいように利用されるのではないだろうか。だから、ここに『大義』を扱った論点と、重ねて行かねばならない、と思うのだ。遠藤はこう言いたかった、というような書きぶりが幾度も見られる論考であるが、本当に遠藤はそう求めていたのかどうか、私は少し保留しなければならないように感じた。もちろん、遠藤を読み解いた上でではないが、あまりにも本論で終わっては、片山杜秀氏の叫びが空しく無駄になってしまいそうな気がしたのである。
 
このように、内容的にも一貫したものを明らかにしようとしているのではないだけに、初めに触れた「斬新で奥深い内容」というのは、確かにそうだと思う。そうでなければならないと思う。読者に宗教思想への考察がないとき、このうちのどれかにすうっと魂が吸い寄せられることがあるかもしれない。だが、それこそが問題なのだ、ということを、本書は伝えようとしているのではないか、と私は考える。自分で意識していない中で、自分の中には確かに宗教心のようなものはあるのであって、それは自覚がないときに、どうかすると何かに中身を奪われてしまうような罠が潜んでいると思うのである。
 
みんながしているから、してもよい。という発想は、昔だけのものではない。いまも世の中に染みついていることを、私は日々確認している。それは一種の「宗教」なのである。本書が、教団のスキャンダルなどに目を奪われるものでなく、自分自身の魂を見つめるように仕向けていることは、ひとつの価値ある問いかけであった。ぜひそこを省みていきたいものである。

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