見出し画像

父の言葉と光の道

箴言4:10-23 
 
父の言葉を受け容れるならば、命が歳月を増すだろう。その言葉に思いを向け、耳を傾けるならば、それは命となるだろう。目から話すことなく心の内に守るならば、それは命となるのだ。父親からの、逞しい言葉が続きます。全身がそれで健やかになるだろうから、父の言葉を受け容れる、その心がなによりも大切なことだということになります。
 
そこから命が来るのです。父という姿をとり、息子への言葉だというわけですが、時に、そこに女に誘われるな、という教えが入ってきます。箴言は、もちろん神から人への言葉として読まれてよいはずのものです。それが知恵の道となるのです。まっすぐな道です。主の道は、人の足を守り、確かなものにします。与えられる諭しは、命です。
 
分かりやすいように、悪との対比がなされています。悪しき道というものがあり、それへ逸れてはなりません。そこに足を踏み入れてはなりません。そこを通るな。目もくれるな。他人を陥れ、他人をよろめかすような輩なのです。しかし、正しき者の道というものがあります。そこは闇ではありません。むしろ、光です。
 
その道を歩めば歩むほど、光は増します。真昼の輝きとなるでしょう。こうした教えを、いま私たちが受けています。ある意味でこれは、メタ認識の領域です。あるいは間接的な戒めにもなります。神からの教えが私たちのところにストレートに及ぶのではなく、神の教えはこのようなものであるぞ、と説明されるという構造になっています。
 
一つ注目したいのは、「悪しき者の道は闇のようだ。何につまずくのか、知ることさえできない」という句です。暗闇では、何につまずいたか、どうしてつまずいたのか、見えないために分かりません。いま自分がつまずいているかさえ、分かるのかどうか怪しいのですが、ともかく何が危険なのか、人間には判断がつかない、という耳の痛い話です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?