疑うことから解き放たれて (ヤコブ1:2-8, サムエル上6:10-12)
◆猫だまし
以前、天神のバス停の後ろのところで、籠に入った動物たちを見せている人たちを見ました。犬や猫の保護活動に熱心な方々がいて、捨てられた動物を飼ってくれないか、と呼びかけていたのです。小さな命を守る旗を掲げて。
しかし飼うことには支障がある人がたくさんいます。そのような中、地域で猫たちを暮らすことができるように尽力している人々がいます。そうした猫を、「地域猫」といいます。野良猫は、住民に迷惑がられて、殺処分されることがありますから、大きな公園などで匿い、住宅に猫が迷惑をかけないようにしているのです。それでも近所の住宅まで行動範囲を広げる猫もいますから、なんとか理解を、とお願いしていることもあります。
ボランティアさんたちは、地域猫のために、朝夕餌を与えに回ります。飲み水を替え、ボックスのような住まいを清掃します。餌は置いておくと不衛生となりますので、食べきりが原則です。猫たちは名前を呼ぶと、餌だと分かっていますから、集まります。けれども何らかの事情で出会えなかった猫は、食いっぱぐれてしまうかもしれません。餌やりは、雨の日も風の日も欠かせません。怪我をしたり具合の悪かったりする猫がいれば、一時自宅に預かり、病院に連れて行きます。
そして、猫たちには不妊手術を施して、これ以上増えないようにしている、これが大切な点です。TNRという言葉をご存じでしょうか。猫たちを捕獲(Trap)し、不妊手術を施し(Neuter)、元の場所に返す(Return)ことです。手術するとき、猫の耳に少し切り込みを入れます。だから見た目でそれと分かります。耳の先に三角の切り込みを入れると、耳がまるで桜の花びらのような形に見えますから、彼らを「さくら猫」と呼びます。オスの猫は右の耳を、メスの猫は左の耳を、「さくら耳」にします。
毎週、その猫にたち会いに行きます。最初から人に馴れている猫もいますが、猫は概して臆病です。でも幾度も顔を見せていると、次第に信用してくれて、親しくしてくれる猫もいます。膝の上で寝る子もいます。とくに冬は寒いので、人肌恋しいようです。猫じゃらしで遊んでくれる子もいます。やはり野性の血は抑えられません。猫は視力はよいとは言えませんが、動体視力は発達しているので、動くものについては野性味を発揮します。
ひょいひょいと目の前で動くものがあると、つい、立ち上がって両手で押さえようとする。猫じゃらしに騙されて、猫が立ち上がったその姿に似ているからでしょうか、相撲の戦法に「猫だまし」というものがあります。立合いと同時に相手の目の前でパンと両手を叩き、相手を惑わせる業です。これで勝っても、いわゆる「決まり手」にはなりませんが、弱い者が強い相手に挑むときの奇襲戦法とされています。
◆哲学は疑う
6:少しも疑うことなく、信じて求めなさい。
ヤコブ書でなくても、疑ったことで信仰が小さいことをイエスが弟子たちにぶつけたこともありますし、疑わなければ山でも動くと教えたこともありました。が、新約聖書の中でも「疑う」という言葉そのものは、あまり多くは登場しません。今日はヤコブ書を取り上げました。
疑いは信仰に対立する概念のようにも思えます。信仰という言葉は、元はと言えば「信じる」ことそのものですから、信じることと疑うこととは、ちょうど逆のことを言っているからです。子どもたちのようになることが神の国に入ることに必要だと言うこともあります。子どもたちは、元々疑わないからでしょうか。信じたばかりに痛い目に遭うという悲しい体験を重ねつつ、子どもたちは、疑うことを覚えて行くのかも知れません。
疑うことを常とする人々がいます。哲学者です。恰も常識となっているようなことについても、本当にそうか、と疑う眼差しをもち、考え直してみる。そこに哲学の真骨頂があるのだとされます。それは、表面的な考えしかしていないと、簡単に騙されるような事態から、人を守ります。世の中は、誰でも信用して当然、というようなことにはならないからです。
ここ(=ベレア)のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日聖書を調べていた。(使徒17:11)
これは結果的に、そのとおり、イエスこそメシアだと理解した、ということになったのでしょうが、悪い意味での疑いのようには普通誰も受け取りません。旧約聖書を熱心に読み直したという、ひとつの模範のように描かれています。
しかし「哲学」という呼び方をすると、それは言葉としてだけで、けしからんという反応をするクリスチャンがいるのは、悲しいことです。それは、ほぼ次の箇所に基づいているかと思います。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(コロサイ2:8)
古代ギリシアにおいて、知を愛するという意味で「哲学」の語が生まれたのは、紀元前四世紀の頃でした。プラトンがソクラテスをキャラクターとして、その精神を受け継ぎ、やがて自身の理想を、多くの対話篇を執筆し、自ら建てた学園アカデメイアのテキストとします。
それより一世代若くして現れたアリストテレスは、万学の祖と呼ばれるほど、様々な「学」を打ち立てました。これらの哲学は、ヨーロッパが教会支配の時代になるにつれ失われ、その文化はイスラム文化が見出し、育むことになりました。
ギリシアではその後、いわゆるヘレニズムの哲学が興り、かつての哲学精神からむしろ人生訓のような姿をとるようになります。ストア派とエピクロス派という大きな流れができますが、それでも物事の根本はどうなっているのか、そこへの視点は欠かせなかったように思われます。
聖書が目の前に現れても、こうした哲学的思考のできる人は、論理的に聖書の内容が説明できるかどうか、試みたことは十分考えられます。それで思わず、「むなしいだまし事」だと哲学のことを呼んだのかもしれません。しかし、アウグスティヌスやトマス・アクィナスなど、偉大なキリスト教教義の基礎を築いたような人の思想が、まさに哲学であったということを、人類は忘れてはいけないと思われます。
けれども、「だまし事」と書かれただけのことを真に受けて、哲学なんぞくだらん、と見下すクリスチャンがいます。そういう人たちの中に、ちょっとした哲学を学んでおけば陥ることのない思考の罠に、簡単に陥っていることがあるのを見ると、私は悲しくなります。教会で熱心に、我は正義なりと吠えている様子など、哲学を少し学べば、そんな愚かなことを言うこともないだろうに、と残念に思うのです。
◆懐疑
もう少しだけ、哲学にお付き合いください。哲学で疑いということは、「懐疑」という語で普通示します。人間は、何かしら根拠を想定して、それを基にして次々と信用できる考えを構築していくものですが、その根拠は本当に正しいのか、と問い直すことを「懐疑」といいます。むしろ、まずこれが絶対正しい、と示すことを「独断」と言います。独断が正当であるかどうか、それを問うということは必要だと思うのですが、これは現在の政治でも宗教でも、もっと問わなければならない姿勢ではないでしょうか。たとえば「民主主義」こそ正しい唯一の制度だ、という前提から始める議論がありますが、本当にそうでしょうか。古代ギリシアでの民主政治をぼろかすに言ったのが、あのプラトンだったとすると、それは何故か、と問い尋ねてみたくなりませんか。
古代ギリシアにおいては、いろいろな懐疑主義の哲学者がいました。ピュロン(B.C.300年前後)という人の名で代表されることがありますが、いわゆる「不可知論」を展開したと言われています。事物そのもの、また事物の本性は、知ることができない、という結論を下しました。
これが1800年以上も経って、近代の思想の中で再び注目されます。認識論と呼ばれる考え方において、やはり不可知であることについて考えた人が多数いますが、その中で、懐疑がむしろ思想の確立のために用いられた、重要な哲学があります。近代哲学の祖とされる、デカルトです。
デカルトが目指したのは、真理の認識の方法でした。そのために、本当にそれは正しいか、と真摯に問うたのです。それで、少しでも疑わしいものは取り除くということを繰り返し、確実に真理だと呼ぶことのできる原理はないものか、と思索しました。これは一種の思考実験でしたので、この考え方を「方法的懐疑」と言います。いわば、手段として、疑うことを徹底しようとしたのです。
いま自分が見ているものは確実なのではないか。だが待てよ、それは何者かが私を操って、そう思わせているだけかもしれない。目の前の物の存在は、必ず正しいとは言えないのではないか。こんな具合に自ら問い続けます。その過程については省略しますが、その結果最後に辿り着いたのは、待てよ、こうして考えている私そのものが存在することは、考えがなされている限り、否定しようがないではないか、というところでした。「私は考える、それゆえに私は存在する」という点については、確実だ、とし、そこから凡ゆる認識を根拠づけていきました。
そこから導かれた体系が、この思考する精神と、空間的に位置や形をもつ物体と、二つの存在原理から成る世界でした。それは、従来の西欧人たちの世界観を大きく変えることとなりました。そして私たち現代人も、概ねこの新しい世界観を受け継いでいます。私たちが「それはあたりまえだ」と思うようなことも、デカルト以降のものの見方・考え方に過ぎないという場合が多々あります。それだから、哲学を少し学ばないと、その新たな世界観が世の中の真理のすべてだ、と思い込んでしまう虞がある、と言えるのです。私たちがいま聖書を読んでいるのも、この新しい世界観の範囲内で、そうした文化的背景の思考枠に当てはめた形で読んでいる可能性が、あるわけです。
◆ヤコブ書
哲学の擁護のような話を長々と続けてきました。そろそろ聖書に戻りましょう。ヤコブ書について、まず少し触れておかなければなりません。と言っても、学術的にヤコブ書とは……と話を切り出すつもりはありません。これがプロテスタント教会でしばしば嫌われて、取り扱われないという傾向にあることを確認しておきたいだけです。
事の発端は、たぶんルターにあると思われます。プロテスタントの始祖としてのルターが、このヤコブ書を毛嫌いしていたことです。行いが伴っていなければ、信仰は役に立たない(2:14)、死んだものだ(2:17)と言い、こうしたことをさらに重ねた挙句、次のように言います。
これで分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(2:24)
ルターはというと、カトリック教会に反旗を翻し、パウロの「私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考える」(ローマ3:28)などを根拠に、修行や善行によって人が救われるのではない、ということを主張して闘ったことで知られています。そのルターにとって、ヤコブ書は、できれば新約聖書から抹消したいとすら考える対象だったと噂されもしますが、それは、「聖書への序言」の中でヤコブ書を「藁の書」とまで呼んでいるからです。但しそれは、他の福音書や手紙と「比べるなら、ヤコブの手紙は軽い藁の手紙である。なぜなら、これは福音的性格を何ら持っていないからである」と記している箇所のことです。ルターは必ずしも、ヤコブ書を無用だとは、少なくとも表向きには公言していないようにも見えますが、如何でしょうか。
ですから私たちは、もっと安心して、偏見なく落ち着いてヤコブ書に向き合うことが必要でしょう。また、これは私たち現代人が思う「手紙」であるのか、それともいまでいう「説教」に近いものであるのか、それも少し気にするべきかもしれません。しかし、神から送られたプレゼントとして、私たちは迎えていくことにしましょう。
ここではまず「試練」の中にいる人々へ向けて、メッセージを送っていることが見てとれます。
2:私のきょうだいたち、さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい。
3:信仰が試されると忍耐が生まれることを、あなたがたは知っています。
4:あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、完全で申し分のない人になります。
なかなか厳しいところから入ります。試練を喜びだと見なせ。いや、無理です。なんと無理難題をいきなり押しつけてくるものでしょう。段階を追ってみると、「試練」→「忍耐」→「完全」というように読めます。だから喜べということのようです。確かに、試練にもし潰されなかったとすれば、そこには忍耐力が伴う、あるいは育まれることでしょう。こうして試練を乗り越えたら、立派な人間になる、というのは、信仰云々とは別の次元でも、なるほど、と肯けるはずです。ただ、信仰なしであれば、その結果を保証するものは何もないことになりますが、信仰の領域では、「神が」という主語が背後に存在していることになります。そこが、強みであると言えるでしょう。
◆疑うな
そこでいよいよ「疑うな」という、今日の中心概念が現れるわけですが、その前に押さえておく必要のある箇所があります。この後ポジティブな呼びかけの部分を拾いましょう。
5:あなたがたの中で知恵に欠けている人があれば、神に求めなさい。そうすれば、与えられます。神は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与えてくださる方です。
6:少しも疑うことなく、信じて求めなさい。
「疑うな」とは、漠然と神に疑いをもつな、という意味で言われているのではありませんでした。要約すると、「知恵を神に求めるならば必ず与えられるということを、疑うな」というものでした。「知恵」という問題について限定した形で、疑いを入れてはならないこと、しかも、「信じて求めよ」と言っているわけです。「知恵が与えられることを、信じて求めなさい」というのです。
この「知恵」は、「知を愛する」の「知」です。「知を愛する」とは、「哲学」という語の構成を意味しています。「哲学」という語は「知を愛する」と書くのです。言うなれば、ここである意味で「哲学せよ」と言っているようなものなのです。そうして、「疑うことなしに、信仰の内に求めよ」というような言い方をしていたわけです。
では、これを疑ってしまったら、どういうことになるのでしょうか。ここから先は、疑う者はどうなるか、と、ネガティブな方向で叙述しています。
6:疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
7:そのような人は、主から何かをいただけるなどと思ってはなりません。
8:二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠く人だからです。
疑う者は、固定した基盤の上に立つのではなく、風により揺れ動いてばかりである。知恵が与えられるどころか、主から何ものをも与えられることはないだろう。こういう者は、「二心」のある人であり、どこをどう歩もうとしても、しっかりした足取りは保てない。そんなふうなことを言っているのだと思います。
この「二心のある人」という言葉が特徴的です。これは形容詞を名詞として用いている、よくある用法で、要するに「二心の」という形容の言葉が、そうした人を現しているわけですが、英語の訳だと「ダブルマインド」という意味の語になります。正にギリシア語としても「二つの心の」となっています。そしてこの「心」には「プシュケー」が用いられている形になります。
いまは簡潔にのみ申し上げますが、英語でもmind,soul,heartなど、どう違うのか分かりづらい「心」を表す語があるように、ギリシア語でも、デリケートな問題を含む語です。事実聖書でも、同じ「プシュケー」が様々な日本語にその都度変えられて訳されています。古代ギリシア哲学では、これを専ら「魂」とも訳すことがありました。聖書では「命」とする場合もあります。この命とは、肉体的な命を意味するものと理解されています。また、人数を示すときに、ただの「人間」を表すためにも用いられることがあります。
このことから、この「プシュケー」は、体と切り離した心を表すものではないことが分かります。私たちはともすれば、「心」というと「体」とは別のもの、というように対比させて思い描きます。しかし聖書の中で心や魂というものは、からだと切り離して別個に存在するものではなくて、まるごとの人間、まるごとの命の中で捉えられているもののようなのです。
そうです。いま私たちが「心」と聞いて、「体」ではないという前提で考えてしまうことそのものが、デカルト以来の、近代的な思考の枠組みにより、それまでとは変えられてしまった、物事の考え方に陥っている私たちの姿を証拠立てています。それは、自然に対立するものとしての人間の精神というものを打ち立て、それらを主観と客観というように対立させて世界を捉えようとする図式のことです。近代的世界観といわれるもののことです。
従ってヤコブは、こう警告していたことになります。疑うということが、たんに「心」だけが二つに分かれてしまうことを言うのではなくて、もはや人間の命や存在そのものが、分裂してしまうということに陥るぞ、と。
◆二つ
私はふと、思い起こしました。このような二心のひとつの実例と呼んでよいようなものが、旧約聖書にあったことです。それは、預言者エリヤの言葉でした。
エリヤは北イスラエルの預言者でした。やがて北イスラエルは、アッシリア帝国により滅ぼされます。それは、主なる神を信じない王が続いたことと関係があるように、聖書は描いています。しかしその危機の中で、そのことをしきりに訴える預言者たちがいました。神の言葉を、王や人々に伝えるのです。エリヤはその中でも、現実に不思議な奇蹟を起こす力がありました。
イエスが現れるとき、エリヤが先に現れる、と言われていた話や、イエスが十字架の上で叫んでいたのを、エリヤを呼んでいる、と人々が聞いたという話を、新約聖書の中から思い出す方もいらっしゃるでしょう。姿が変貌する山において、エリヤとモーセ幻を見て、小屋を建てましょう、と訳も分からず興奮して喋っていた、ペトロのこともお考えになったかもしれません。
エリヤは、どうしようもないような王アハブもいる目の前で、偶像バアルのための預言者を壊滅する機会を得ました。主を信じるか、バアルを信じるか、決着をつけよう、というのです。当時は神への生け贄というものがありましたから、人が火をつけなくても、実在する神は火をもたらして生け贄を焼き尽くすはずだ、という点で、バアルの預言者たちと勝負をしようとします。
イスラエルの人々は、バアルを拝んでいます。しかし、エリヤの言うことも、分からないではないのです。イスラエル民族は伝統的に、主を拝してきたことは知っているのです。しかし、地上で豊穣の神とされる異民族の神バアルを拝む生活を、日常的にやってきていました。エリヤの挑戦的な問いかけにも、どう返答してよいのか分かりません。その様子を見て、エリヤが言います。
エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従いなさい。もしバアルが神であるならバアルに従いなさい。」だが民は、一言も答えなかった。(列王記上18:21)
二つの神の間で選択を迷う者たちに対して、「どっちつかずに迷って」いてよいのか、と問うたのです。しかしまだこの時点では、民はどちらに味方するのか、態度を明らかにはしませんでした。これはもはや、人格が半分に分かれているようなものではないかと思います。
では、揺らぐことなく一筋に向かうような出来事は、旧約聖書にはなかったでしょうか。私はまたしても、ひとつの情景を思い出しました。
後にダビデ王を選ぶことになる、預言者サムエルが、預言者になって間もない頃でした。当時イスラエルは、文明の進んだペリシテ人たちと対立していました。イスラエルだけではありませんが、当時戦いのときには民族の神を率いて神の力で勝利できると考えていました。イスラエルには、モーセ以来の「主の箱」というものがあります。その中には、十戒を刻んだ契約の石の板とや、アロンの杖などが入っていたといいます。
このとき、イスラエルはペリシテ人に負けます。それでペリシテ人は、主の箱を奪い取って行ってしまったのです。ところが、ペリシテ人の偶像ダゴンが、この主の箱が来て以来不思議なことばかりあって壊れてしまいます。ペリシテ人は、たまらず、こんなものは奴らに返してしまおう、と思い立ちました。しかも、また災いが起こってはかないませんから、丁寧にお土産まで付けます。二頭の雌牛を車につなぎ、車には主の箱や、余計なことですが金のねずみなどの像をも載せました。
雌牛は歩きだし、ベト・シェメシュに通じる大路をまっすぐに進んで行った。道すがら鳴いたが、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちはその後を追って、ベト・シェメシュの国境まで付いて行った。(サムエル上6:12)
主の箱を載せた車は、「右にも左にもそれ」ることなしに、イスラエルへ向かいます。主の箱は、安定した道のりを辿り、イスラエルの許に戻って行ったというのでした。皮肉なようですが、人間は心が二つに分かれるのに対して、牛はまっすぐに進んだのです。
◆試練と喜び
相撲の猫だましの話を致しました。立合いのとき、パンと手を打って脅かされると、予想しない相手は、思わず目を瞑るでしょう。あるいは、何が起こったのかと戸惑い、自分が本来とるべき相撲のことを忘れてしまうかもしれません。
私たちは、自分の予想しないこと、思いがけない出来事や仕打ちに、すっかり気を奪われてしまいます。試練という猫だましに、すぐに怯んでしまいます。すると戸惑い、自分で信じるべき考えや知恵を、一瞬にして見失わせてしまいます。
ヤコブ書は、「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」(2)と命じました。そんなこと無理だ、と私たちは抵抗したくなりますが、これは、試練から忍耐へと転ずる中で、克服されるものだと教えていたように見えました。但しそれは、人間の力で、人間の知恵で乗り越えるものではなかったと思います。「神が」という主語が背後にあって初めて、試練も喜びに変わりうるのだというふうに、捉えたいものだと理解しました。
他方、人間には、自分には十分知恵があるのさ、などと思い込む性向もあります。思い込む、それはよく検討したり吟味したりすることがないところに起こります。つまりは、人間は自分の力や能力については、たっぷりと疑わなければならない、ということです。人間に対しては、大いに疑いを向けなければなりません。特に自分自身は、厳しく疑う必要があるのです。
それに対して、疑う必要がないのは、聖書の約束であり、神の約束です。しばしば現代では、これらの対処が、全く逆になっていることがあるような気がします。聖書についてはその内容を疑い、自分の中に巣くう常識というもののほうを信じる、そうした捉え方が、一部に蔓延しているように見えます。自分にとってはこのようにしか解釈できないから、聖書のほうが間違っている、とするのです。これは、少なくとも聖書からの声とは、正反対のことです。それは聖書からの「知恵」ではないのだ、とヤコブ書は告げているのだというように、私たちは今日、読んできました。
自分が逆方向を向いていないか、神に背を向けていないか、そのことに気づくことが求められます。そうではないか、と疑うことが求められます。これについては、疑うことを求めるべきです。しかし、神の愛と恵みについては、疑うことなく、信仰の内に求めるままでありたいと願います。神は、与えます。惜しみなく、すべての人に与えます。あなたの歩む道は、人間の目からは曲がりくねっているように見えるかもしれませんが、神の目からは、安定したまっすぐな道として、備えられているはずです。神の箱は、目的地へまっすぐに進んだのです。
ヤコブ書は、そんなふうに私たちに力強く、励ましを与えています。喜びを、与えてくれています。聖書は、須くそのような書であるのです。
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