ひとの移動
新型コロナウィルス感染症が、日本では依然厳しい情況である。よくぞ医療機関が動けていると驚くが、関係者の苦労と緊張は休み無く続き、いつ破綻してもおかしくないようにも思われる。ワクチンの効果は、やはりありがたいものだったと言えるだろう。
歴史の中で、こうした感染症は度々起こっている。SARS(重症急性呼吸器症候群)が世界的に恐れられたのがもう20年も前であり、以後大きな病院にはその警告がずっと掲示されていたけれども、一般での感染症に対する意識は比較的低かった。まさかそんなことがあるだろうか、というのが概ね人々の頭の中ではなかっただろうか。
しかし歴史を繙けば、百年前の「スペイン風邪」の猛威は、このコロナウィルスよりもっと怖かったはずである。キリスト教会でも多くの死者を出していたが、記録の底にかき消えていた。このコロナ禍の中で、それが発掘されて公開されたこともあったが、概して適切な記録が遺されていない模様である。
ヨーロッパでは黒死病とも呼ばれ、ペストとされる感染死が、中世に悪魔のように襲った歴史がある。これも案外史料としては薄いようにも見え、むしろ文学の領域で、それが伝えられている。どこまでが事実の記録なのか分からないような書き方のものもある。
特にその中世という時期は、ひとの移動が盛んになった時代でもあることが、注目されている。すべての道がローマに通じていた時代は、軍隊と交易の移動というのは大きかったが、一般の人々の移動は限られていたであろう。あるいは宗教的な移動ももちろんあったに違いないが、そこで起こった疫病は、地域的に限られている場合が多かったものであろう。それが、中世になると、一地域で発生した疫病が、拡大していく素地ができたようになっのである。
文化が拡がるのと共に、ウイルスも拡がる。ひとが動けば、ひとに住むウイルスも動く。新たな住処を探すウイルスにとり、ひとが動いてくれるのは、好都合であったのであろう。ウイルスが生物であるかどうか、については人間の側の認識や定義に基づくので、ここでウイルスに意志があるかのように描いたことは、どうかお許し戴きたい。
聖書にも、度々疫病というものが登場する。神がそれをばらまくかのように描かれているところもある。引用は煩雑になるので割愛する。
人間は、疫病のメカニズムについては、ずっと知らないでいた。医学の歴史を繙けば、いまや常識というようなことも、少し前まで、全く未知の世界であったことがよく分かる。あるいは、いまなされている治療法についても、数十年後には、なんと間違ったことを、と嗤われるようなことであるのかもしれない。新型コロナウイルスについても、私たちが間違った対処をしていた、というように結論される可能性がある、ということだ。
今私たちが知るメカニズムにしても、正しいかどうかは分からない。原理は不明だが臨床としては効果がある、という程度の薬学や医療も多々あるわけだ。中井久夫先生は、あるいは個人毎に別の治療文化があって、普遍的な医学というものはないかもしれない、という視点をもたらしてくれた。メカニズムという言葉自体、不毛の概念であったって構わないというくらいの気構えが、私たちには必要なのだろうか。
さしあたりワクチンが、歴史上にあった過度の死亡例をいくらかでも抑えているのだとしたら、いま私たちができることに、何らかの勇気が与えられる。天は自ら助くる者を助く、というような言葉でもいい。慰めがもたらされると言えるだろう。
私たちは、疫病の怖さを忘れていたのかもしれない。SARSでも狂牛病でも、また鳥インフルエンザでも、こんなに経済生活に打撃を受けるほどの経験をしなければ、どこかよそ事で見ていたと言うべきなのだろう。聖書を手にするキリスト者ですら、そうした事態の見張り役を怠っていたと言わざるをえない。見張りは、本当に敵の襲来に気づいていたら、知らせなければならなかったはずである。それが、世間の人々と同様に、呑気に、きっと大丈夫だ、と根拠のない平安を口にし続けていたのである。
「あたりまえ」の言葉に安心して、「みんなやっている」を言い訳にするようなことであってはならない。人間社会はこれでいい、という終わりはないであろう。終わりというものがあるとすれば、神の国であればこそである。私たちは、それぞれに「これでよい」という思いを懐いてよいとは思う。人事を尽くして天命を待つ、という境地でやり遂げた後は、神に委ねるとよい。だが社会全体、つまり人間界のすべての事象については、「これでよい」は人間の手で作ることができないに違いないのだ。
経済を回すという目的のために、国家により人々は移動を許されている。それをどうしろとは言わないが、そうするならばそれなりの報いを受けることは覚悟しなければなるまい。一人ひとりが自由に楽しいものを求めることができるようにという配慮が悪いことはないのだが、もはやそれが当然という育ち方をしてきた人々を、もう抑えることはできないのだ、という前提がそこにはある点を確認しておきたい。ウイルスを運ぶ器としての人間は、ウイルスの意図を満足させるべく、今日も明日も移動する。
せめて、移動の危険性を覚りつつ、たがを緩ませないのが人間の常態であれば、いくらかでも亡くなる方が減るであろうに、とは思う。
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