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『火のない所に煙は』(芦沢央・新潮社)

若いミステリー作家。殺人事件や探偵が登場するタイプではない。ホラーもの、とも言い難い。今回は、作家が新潮社から依頼を受けて怪談ものを書くというところからスタートする。短編がいくつも連なっているが、一つひとつは別の件である。但し、この作家が最初に書いた「染み」という怖い話に反応して、別の話が届けられたり、ファンめいた押し入りがやってきたりして、次々と怖い話が重なっていく。一つひとつの話は独立しているが、やがて作家が巻き込まれていくような具合になる(残念ながらミステリーであるだけに、ネタバレを起こしはいけないので、物語の内容にはこれ以上一切触れないでおく)。
 
怖かった。
 
私は決してホラーファンではないし、そういう話はいまは好きではない(子どもの頃はちょっと興味があった)。だからホラーものの良し悪しを論ずる資格などない。ただ、この本には、惹きこまれていった。何かしら怖さをテレビ画面で見て、自分とは別の世界の出来事として対象化して眺めるようなふうにはならず、いま自分がその現場にいて、自分が体験しているような気持ちにさせられるのを覚えた。だから、怖かったのだ。
 
この作家の他の話でも、そうだ。当事者がトラブルに巻き込まれて、それを解決するために嘘をついたり、ごまかそうとしたりする。それだけの話ではあるのだが、まさに読んでいる自分にも、そうした出来事には何か思い当たるふしがあって、まるでいま自分がその嘘をついているような気になり、物語の展開に入っていって、ハラハラするのである。
 
ところで、この本にはネットでも評価がついているのだが、ちっとも面白くない、つまらない、怖くない、と非難する声が少なくない。他方、怖かった、と高評価する人もいる。評価が二分されているのだ。
 
世の中には、ホラー映画ファンがいる。そのすべてがそうだとは言わないが、お化け屋敷感覚で、これは嘘だという前提で恐怖感を楽しむ人がいるだろうと思う。嘘でも、ドキッとすることは間違いないので、本当の自分は安全なところにいることを踏まえた上で、恐怖を仮想体験して、カタルシスを覚えたいと期待する場合があると思うのだ。
 
本書の一つひとつの話は、そうした恐怖ものと並べられたら、確かにそれほど怖いものではない。もっと恐怖感を煽る話はいくらでもある。そしてこの本では作者自身が巻き込まれていくようなふうになっていくのだが、解決がつかない宙ぶらりんで幕を閉じる。スッキリしない。恐怖ものが好きな人は、思い切り怖い目に遭って、スッキリしたいのだ。現実の自分をいつまでも取り巻くような恐ろしさに包まれたいとは考えない。ひとつの娯楽として、安全な位置にいる自分から突き放して、画面の向こうの出来事として眺める題材が好ましいのであって、本を閉じたら、さっさと現実に戻ることができればそれで十分なのである(くれぐれも、ファンのすべてがそうだと言っているわけではない)。
 
私はどうして怖かったのか。それははっきりしている。私が本の世界に惹きこまれたからだ。私が本の中に入ったからだ。本の中の虚構を現実と区別できなくなって、その出来事を体験してしまったからだ。
 
キリスト者として、本書のテーマのようにもなっている、お祓いとか占いとかいうものについては、私は現実感をもたない。だからそこに怖さを覚えるものではない。だが、作者の語りがうまいために、本の中の出来事を一緒に体験するような羽目になってしまった。その点の巧さは感じた。
 
私は気づいていた。これは聖書の読み方そのものである、と。聖書の世界を、自分とは関係のない物語として対象化して読むだけでは、神を感じることも、救いを体験することもない。ただの空想物語であり、奇想天外なものや感心する話の羅列に過ぎず、面白くも何ともない。だが、聖書に描かれている世界が現実とつながってしまった者、あるいはその世界に降り立って描かれた出来事を体験した者にとっては、神を感じるのであり、救いを経験するということになるのである。それが聖書のリアリティである。聖書の言葉が出来事となる、ということの一つの意味である(元の意味は、神の言葉がそれ自身現実となる、ということである)。
 
文学をどう読むか、そこに、聖書をどう読むか、が関係していることは間違いない。宗教的体験もまた、語られたことが現実の出来事となるという経緯に関係しているわけである。だから、こうした本を怖いと感じるような人は、きっとすぐさま聖書をリアルに読めるだろうと私は期待したい。

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