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『愛とラブソングの哲学』(源河亨・光文社新書)

九州大学で講師を営む著者は、美学方面でユニークな発言をしているようだ。これまでも、『悲しい曲の何が悲しいのか――音楽美学と心の哲学』などの、身近な実例に考察を向けている。この本が曲を中心としていたのに対して、今回は、歌詞をも含めて探求を深めている。
 
テーマは「愛」である。タイトルから当然だと言われそうだが、その「愛」たるものも、実に制限されている。大学生が話題にするような、そんな「愛」であるのだ。つまり、「博愛」や「神の愛」といったレベルの「愛」を、つい、哲学者は思索したくなるものである。神学者であれば、なおさらそちらに向いて行くだろう。エロスとアガペーとを対照させる考え方は、ニーグレンが提唱したと言われるが、ついには教科書にも用いられるほどに有名になった。だが、それは神学的な視座に基づくものであった。
 
本書は、タイトルのもうひとつの要素「ラブソング」、これに徹しているからには、そこでいう「愛」について、説明は要らないだろう。異性かどうか分からないが、要するにラブソングの「愛」がテーマなのである。
 
私など、中学生のときに音楽に目覚め、曲の作り方が分かってくると、詞を数多く書いた。高校になって間もなく、千を超えた辺りまで書きまくっていたが、その殆どはラブソングだった。その間、女の子に恋をもしていた。本当は小学生からの続きであったのだが、とにかくいつも誰かを「愛している」と思っていた。うまくいったということは殆どない。大して好きでもなかったけれども、成り行き上付き合ったようなことはあったが、自分から求めていたというものではなかった。それに対して、自分から好きで好きでたまらないという気持ちになった相手とは、うまくいくものではなかった。そういう気持ちの中でラブソングを綴り続けていたのだ。
 
身上話をこんなふうに語ったことは少ないが、何故ここでわざわざそれを挙げたか。それは要するに、詞を作る者としての経験から、本書と親和性があったということが言いたいからである。本書のテーマは、私が実践してきたことの、ひとつの分析であると感じたのだ。
 
さらにタイトルの中心は「哲学」である。これはその後私がしばらく足を突っ込んでいたものであった。これを掲げる以上、著者も先ず「哲学とは何か」というところから扉を開いて行かなければならなかった。だが、それが目的ではないから、その点は簡潔に切っておくようにしていたように思う。哲学の特徴を「知識の探求と批判的吟味」に置くのだ。この角度から、本書は「最も見込みのある答えを導き出そうとする試み」を行っているのだ、と宣言する。この後、もうずっぽりと「愛」と「ラブソング」について暴走していくことになるのだが、実は最後の最後に、この「哲学」の役割について、ちゃんと落とし所をつくっているので、どうぞ読者は、それを楽しみにしているとよいと思う。
 
学生のための語りを日常的にしている著者は、学際的に高いところから教えを垂れるようなことはしていない。本書はまず全体の地図を読者に紹介する。また、各章の区切りにおいて、振り返りを行い、確実な足跡を遺していく。これは実に親切だ。新書という限られたスペースにおいて、これをいちいちやっていくと、言いたいことを記す分量に欠いてしまいそうではないのか。だが、実のところ本書は、要点だけを抜いていくと、それほど多くのことを述べているわけではない。その余裕が、大学の講義で確実にメッセージを伝えていくためのじっくりとした足取りとして現れているのかもしれない。
 
従って、私もこの場で本書の粗筋を辿ることは遠慮する。それは本書をお買い求めの上で、楽しんで戴きたいとも思う。
 
しかし、概観は提供しても構わないだろうか。本書がそれなりに広い視野に立っていることを紹介するためだ。「愛」が感情であるのかどうか。そこに理由が必要であるのかどうか。こうした問題意識から先ず迫ってゆく。決して体系的な哲学の構え方ではない。思いつくままに、愛の本質に近づいていこうとする様子だ。ただ、この「愛の本質」ということ自体も、やがて問題になる。愛は一定の本質をもつものではなく、多様なあり方を呈するというところを明らかにすることによって、ラブソングの意義と出会おうとする意気込みがあるように思われてならない。その際、近年流行の脳科学からのアプローチについても少し触れるし、歴史的な結婚のあり方についても指摘することになる。愛と結婚との一致というのは、実はごく限られた文化や時代の産物であるというのだ。これは美学の領域では常識になるだろうとは思うが、審美の基準についても、私たちはごく近代の見方の中にいて、それが当たり前だと思いこんでいるかもしれないが、実はそうではないのである。
 
そして本書はラブソングの話題に飛び込んでゆく。先ず曲の問題から、しかし本題は歌詞の方に走る。私の経験からは、あまりに具体的な情景によるよりも、どこか抽象的な言葉により、共感を得るというのが、王道であるように思っていた。私がオフコースに没入したのも、高校の時の体験からだった。自分の心が相手から離れてゆくのを覚えたとき、小田和正の歌詞が、ズンと突き刺したのだ。やがて小田について知っていくにつれ、日常の何気ない言葉しか使っていないにも拘わらず、その言葉の組み合わせや結合によって、とてつもなくせつないものが響いてくるということに気がついた。それだからこそ、共感を呼ぶのだ。これは自分のことを歌っている、と感じることができるのだ。
 
本書の終わりのほうでは、失恋ソングの意義について考察している。それを「カタルシス」という、曖昧な言葉で説明することを、著者は拒否する。これはよい態度だった。安易にそう説明するのが普通だが、実のところ「カタルシス」とは何かという定義が非常に曖昧極まりないものなのだ。それを避けて、「書き換え」というような言葉で説明しようとするものだが、これも、私の経験では、当然すぎるほど当然だった。好きな相手に見事にフラれる。それを歌にする。歌にして歌う。それは、必要以上に自分を深刻なところに追い込むことから守ってくれた。自分を客観的に眺める、というと嘘になるが、自分の傷ついた心を、歌にすることで、確かに自ら癒やしていたのだ。もちろん、たんに美しい思い出にしよう、と意図するものでもなかった。悲しいのは悲しいのだ。だが、歌にすることで、一種の救いがそこにあったのは間違いない。これは、世の失恋ソングに共感する人も、きっとそうなのだろう。ただ、私の場合は、自分で自分のために作るというところが、よりリアルに、ラブソングの必要性と意味とを実践していた、ということになるであろう。
 
最後に、実際のミュージシャンとの対談が備えられている。ラブソングしか作らない、と宣言した、evening cinema のボーカル・原田夏樹さんが登場する。これは私のように、歌を作る側の視座というものと触れあうものであっただろう。そこには、アーチスト側の、言葉にならないものが蠢いていた。著者がそれなりに鋭利にここまで述べてきたようには、説明できないのだ。しかし、時を超えて愛されるラブソングも確かにあるし、新しい時代には新しい時代の「愛」を歌うものが現れる。ひとはラブソングにより、自分がひとりぼっちではないことを覚り、たとえ失恋したとしても、また立ち上がり、世界の中に戻ってくることができる。そのように言語化することは、アーチストはなかなかできない。もっと感性的な部分で、曲を生み、詞を書く。
 
著者が、実際に作詞作曲をする人であるのかどうか、私は知らない。恐らく、あまりそういうことはなさらないのではない、と勝手に推測している。私は、それをしていた。だから、著者がもうひとつ、核心の周辺をぐるぐると廻っているような動きを感じながら、クリエイティブな立場から、もっと「自分のために」歌を作るんだよ、と叫びたくなるような気がしていた。オフコースにしても、歌詞の中に「歌をつくる」という場面が、けっこう出てくるのだ。歌をつくるという歌をつくって何になる、と聴く側は感じるかもしれない。だが、私はよく分かる。つまりは、ラブソングというものを、商業主義の音楽産業の産物にしてしまう必要はないのだ。誰もが、自分のラブソングを作るのであり、多分に実際作っているに違いないのだ。この視点を著者が実感したら、また違う角度から、本書の続編が書けるのではないだろうか。そんなことを、一読者画、偉そうに呟いてみる。
 
訳あって、私はこの著者と、少しばかりつながりがあるのだ。お会いしたこともないし、著者も私のことなど、ご存じないに違いないのだが。

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