『天の国の種』(バーバラ・ブラウン・テイラー;平野克己・古本みさ訳;キリスト新聞社)
以前本書をメインに据えて触れたことがあるが、本の内容の紹介はしていなかった。本書に関して再読する機会があったとき、それで発覚した。以前読んでいたのに、このコーナーにまとめていなかったのだ。不覚である。遅ればせながら、ご紹介申し上げる。
最初に読んだときも、そのイメージ豊かなメッセージに驚愕した。それは明らかに聖書を逸脱している。だが、いま手許の私たちのいる世界での場面としては、まさにそういうことなのだ。五千人以上のあの給食の群衆の中に、読者は連れ込まれる。しかし、ポケットの中に「ぶどうの葉にくるんだひとかけらのラム肉、ほんのひと握りのレーズン、朝食のパンの残りのひとかたまり」をもっているなどと、聖書が語るはずがない。そしてそこの「小麦パン、サワードウ、黒パン、ライ麦パン、レーズンパン、ピタパン、ベーグル、もしかするとオートブランのマフィンの一つや二つ」、そんなものが籠の中に余っているなどとは、聖書は書いていない。――だのに、これは私たちを間違いなく聖書の世界に連れて行く。私はイエスが配っているその場に居合わせる。その事件を目撃し、証言することができる証人となる。
バーバラ・ブラウン・テイラーは、神学大学院を卒業した。しかし、小説家志望であった。けれども、売れる気配がなく悩んでいたところへ、説教学者のクラドックと出会う。こうして、説教者となり、聖公会の司祭となる。クラドックがまた、こうしたイメージを大切にする説教がよいという考え方だったせいもあるが、彼女自身、小説家志望としての才覚を遺憾なく発揮することとなった。
但し、教会の運営に忙殺されたのか、燃え尽きるようになり、牧会を離れ、説教者を育てる役割を果たすようになる。また、著書にも精力を注ぐことになる。本書は、1990年のラジオ番組で語られたものである。綿密な完全原稿を淡々と読むものだったようであるが、だからこそ、失敗なく、繰り返し味わうに値する、巧みな言葉の並んだメッセージとなった。
改めて読み、無数の教訓に出会うこととなった。そして、私の説教に対する考え方の多くが、かつて読んだときからこの本に支えられていたことを知ることとなった。まず神の言葉のよい聴き手として立つこと、その言葉と格闘して、それから説教者は神の言葉を告げるようになれる。その信仰は、説教者自身が歩いた道からのみ、発することができる。そうすれば、自分だけの言葉が、それを聴く者、読む者に見つかることであろう。神からの言葉を、体験することになるであろう。
申し訳ないが、その説教の具体的な魅力については、読者一人ひとりが本書から体験なさって戴くほかはない。臨場感露わに、そしていま私たちの生活の中で聖書のスピリットを感じる機会を、幾らでももつことができるであろう。聞き慣れた日本の牧師の説教からは感じられなかった、カラフルな世界を体験できるだろうと思う。
訳者が触れている。その説教は、聴いた後で、「聴き手自身による新しい説教となり、新しいいのちを生み出そうとして、この世界に浸みわたって」いくであろう。「説教が終わってもなお聴き手の心の中に生き続け、新しい出来事を起こそうとする」言葉を知ることになるであろう。だから、訳者は、本書を読んだ人々のために、こう言って結ぶ。「この本を手に取られた方が、ここにある説教によって想像力を刺激され、心を燃やされ、神の光の下で、この世界を新しく発見する「出来事」が起こりますように。そのことによって、静かに、麗しく、この世界が変えられていきますように。」
聖書を臨場感豊かに体験する、不思議な魔法を私は感じた。これは只事ではない。そして思えば、礼拝説教というものは、本来そのようであるべきなのだ。
本書は「マタイによる福音書」だけから構成されている。その他のメッセージがたくさん出版されている。日本語訳も、これからさらに増えていくことだろう。キリスト者が、聖書から神の言葉を受けて、自分も生かされると共に、その言葉をまた誰かに伝え、誰かを生かしていく、その連鎖の発端となるに相応しいメッセージが与えられることを、益々期待したいと思う。
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