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『光かがやく未来へ』(千葉明徳・イーグレープ)

本書を読み始めて、最初に言い様のない違和感に襲われた。目次はいいとして、最初に出会う文章が、「推薦のことば」であった。それが10頁もある。5人が寄せている。教会や保育園をつくったということで、大きな働きをした著者だということは分かる。だが、これほどの推薦文を冒頭に並べる本は、ちょっと記憶にない。
 
「はじめに」は「死刑囚からの手紙」であった。すでに回心した死刑囚が、著者を呼び、若い人たちに福音を伝えてほしい、と願った、というわけである。
 
中学生というターゲットにしたのは、人生の目的を問う時期だ、というようなことが、かなり詳しく書かれている。また、いろいろ立派な人の言葉を並べて、それを確認するようなこともしてあった。もうひとつしっくりしないままに、私はまだそこも肯きながら読むことができた。
 
だが、何かおかしい。実例が少し挙げられたのはよかったが、それが次第に減ってくる。聖書からするとこうだ、これが正しい、という教えがどんどん流れてゆく。だんだんこれは説教集を読んでいたんだっけ、というような気持ちになってくる。
 
最初に、これは違う、と意識したのは、「堕胎することは、殺人の罪です」と但し書きも何もなしにずどんと言い切った文に出会ったときだった。中学生への心配として書いていることはもちろん理解できる。だが、これは21世紀のものの言い方ではない。当事者がこの本を見るなどとは、全く想定していないのだ。グリーフケアというものをご存じなくても別に責めはしないが、あまりにも無配慮な断言ではないだろうか。尤も、そのように正義を語るお年寄りや自称正義者は、キリスト教関係者の中にいないわけではない。その口がアガペーの愛です、などと言っていて、胸騒ぎがしないものかどうか、私は懐疑的である。しかし本書では、後になって、望まない妊娠の問題はデリケートな事態だから守秘義務を、などとこれまた尤もなことを書いてあるが、そこでは自分が殺人と言ったことは忘れているように見えた。
 
長い枠を使って、「メンター」となるための方法が説明される。カウンセリングにおける「理解者」のことであるらしい。「傾聴」から入るのは当然であろう。中学生を相手に信頼関係を築こう、というのもご尤もである。しかしもう、この辺りから、話が極端に抽象的になってゆく。具体的な場面を知る人がこの「まとめ」を見ると、いろいろ知識や経験が整理できるのかもしれないが、これから「メンターとなるには」を読む人を相手にこれだけ立て続けに抽象的な「よいこと」を並べて、何がどう役に立つのだろうか。
 
そのうち、日本人はこうだ、という決めつけが始まり、聖書の思想が如何に素晴らしいかを語るようになる。この見事な「まとめ」が終わると、続いて、「中学生に指し示す指標」が並ぶようになる。聖書の教義である。「傾聴」の次が「教義」である。どこで方向が変わったのだろう。その変わり目こそが、教会側としても、いちばん苦労するところではないだろうか。一旦「うんうん」と聞いてあければ、次には聖書の教えをがんがんぶつけてゆくのだろうか。
 
この辺りで、私は気づいてしまった。これは、半世紀前の本なのである。私が教会に行くようになって、教会の棚には、少し古い本があった。すでに当時、古くさいな、という感じがした。もちろん、「正しい」ことが書いてある。ご尤もなのである。だが、「教会学校の教師が赤いネクタイをしていると生徒がそこに気をとられます」などということが平然と書いてあると、いつの時代だろう、と当時の私も思った。しかし、以前にはそういうことが常識のようになっていた時代もあったのだ。
 
半世紀前というと、著者は40歳くらいである。エネルギッシュに活動していたのだろう。教会を自らつくった頃である。当時うまくいったことは、それはそれで有り難いし、ご立派である。だが、その時代の成功談がいまもこうして繰り返されているだけ、と言えばそれだけなのである。神をこうしてこの順序で示して語れば、救われる、そのような公式をこれほどに書き並べる本は、今どき見ることがない。半世紀前の中学生とはいまは違うのだ。
 
そう言えば、一口に「中学生」と言うが、著者の思い描いている「中学生」とはどういう子どもたちなのであろう。そういう意識で読むと気づくのだが、現代の中学生ではないのである。かといって、半世紀前の中学生とも決めかねる。恐らく半世紀前の子どもたちを頭に浮かべているのではあるだろうが、リアリティのない、抽象的な「中学生」のことしか書かれていないのである。「中学生たるもの、こうあるべきである」というような、波平さんの一喝のようなものがそこにあるのかもしれないが、ここもまだずっと「メンター」のためのレクチャーであった。
 
次は、やっと現代的な話題が出てくる。中学生に聖書を効果的に伝えるための伝道ツールを紹介するらしい。だが、必ずしも新しいものではなく、著者と同世代の人の著書や、戦後間もない発行のものがいいらしい。もちろん、新しい本も少し挙げられているが、アプリを使うなら献金も忘れずに、というような配慮をするような気持ちは忘れないらしい。
 
その後は、キャンプの成功例と、40年前に設立した組織がよかったということで、その組織の歴史とノウハウを細かく説明する。いま子どもたちが来なくなり、活動していないが必ず再開しなければならない、と意気込んでいらっしゃる。
 
英語教育について強い偏見をお持ちであることも、その頁を見るとはっきりする。英語教育は間違っている、使い物にならない、教会で「使える英語」をやろう、それは受験英語ではない、ネイティブイングリッシュだ、外国人クリスチャンに協力してもらえばよい、子どもが英語を学ぶ間、「お母さんたち」は楽しく交流し、親子とも教会に来て福音を聞いてもらえます――という調子である。ボランティアで協力してもらえる外国人がいる教会は幸いである。
 
Q&Aの答えも、現代にはあまり現実味のないものと感じられるし、肝腎の答えはこれこれの本を見よ、とか、ここへ問い合わせよ、とかで済ませていると、Aにはなっていないのではないか。そして、またもや模範的な抽象的な回答が居並ぶこととなる。あちこちでそうなのだが、困難な問題が起こることがあるとなると、愛を以て信じて、希望をもって祈りましょう、というまとめかたで逃げているのを見ると、本書はいったい読者に何を提供したかったのか、と憤る気持ちがする。最初から、子どもたちのことを思う人は熱心に祈りましょう、とでも言っておけばよかったのだ。こういう立派な指導者になれば何でもできますよ、と画餅を示しておくだけなら、こんなに楽なことはない。
 
半世紀前の栄光が忘れられなくて、理想化した教師や指導者の像を思い切り描いて、こうすればまたあのように百人単位で子どもたちが来る、と幻想を抱いているのではないか、とすら邪推する。しかし、かつてはたくさんの子どもたちが教会に来ていたのも確かである。事実、本書には、神を信じた中学生は今どうしているか、という観点から、5人の人の証しや思い出話が掲載されている。が、そこにあるのも概ね抽象的なことばかりであるのは、その先生の手法に倣っていたのかもしれない。そして最大のポイントは、この5人が全員「60代」という年齢で紹介されていることである。計算すると分かるとおり、彼らが中学生であったのは、半世紀前なのである。私がここに至る前から睨んでいたとおり、本書は半世紀前で時が止まったままに書かれていたのである。
 
最後の「おわりに」で、「現代の中学生たちは本を読まない」という神話を信じて、本書は中学生に接する大人たちに向けて書いた、と言っている。本を読まないことはない。そういうデータもある。むしろ読まないのは大人のほうではないのか。そして、これだけ聖書のどこそこを教えればよい、と本を綴っておきながら、読者の中でまだイエス・キリストと出会っていない方、聖書を読んでみたいと思う人はウェブサイトを見よ、などと言う。そんな読者が、ここまで辛抱して読んでいるとは私はとうてい思えない。
 
本の題名「光かがやく未来へ」は、最初「光りかがやく未来へ」だと勘違いしていた。後者であれば、その中学生にとって、未来が光りかがやいている、という意味であり自然だと思ったのだ。だがよく見ると違う。前者だと、主語は光であるから、光が輝く未来へ、ということになるだろう。それは確かに聖書的なのかもしれない。神は光なのだから、神が輝けばよいのである。でも私が中学生のためを思うときには、そのような教義は使わない。あなたの未来が輝くことを祈っているよ、と伝えたい。
 
ただ、本書でひとつ、ステキなところがある。表紙と裏表紙のイラストである。これは、可愛い。

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