見出し画像

我らの日用の糧をきょうも与えたまえ (マタイ6:11, ルカ11:3)

◆主の祈りの要

「主の祈り」と呼ばれるものは、ルカ伝にもありますが、教会ではおもに長いマタイ伝を軸に受け止めています。さらに、そこから教会で伝統的に整えられた形式の「主の祈り」があります。これを念頭に置きながら、私たちは「主の祈り」を少しずつ味わっています。
 
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)
 
これは、伝統的な「主の祈り」の中央部に当たると言えます。ユダヤの文学形式では、中央部は、そのまとまりの中での山場を表すのが普通でした。福音書の物語の構成も、しばしばそのように、中央部をメインとし、その前後が対称的に何らかの対応をとっている、となっているのを見ることがあります。
 
「主の祈り」をそのように解釈しなければならない理由はないのですが、とても大切なことかしら、と私たちは見つめてみようと考えています。
 
そこを中心とすると、そこまでの三つの祈り、つまり主の祈りの前半は、神のための祈りであったように思えます。そして後半は、人のための祈りとなります。厳密にそうなっている、と言っているのではなくて、おおまかな傾向程度に把握しましょう。最初に呼びかけるときに「私たちの父よ」とマタイが神に向けてまず言葉を発しましたが、そこでの「私たち」は、祈りの主役ではありませんでした。しかしこの中央から、「私たち」が頻発します。祈りは、私たちを軸に展開することになります。
 
私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。(ルカ11:3)
 
こちらはルカです。日本語にすると、マタイとそっくりのように見えます。しかし、微妙に異なるのが気になります。最初に並ぶ「日ごとの糧を」は全く同じです。次の「与えよ」は、単語としては同じですが、形が違います。ルカ伝では、現在のことを継続的に述べていますので、いまもいつも、という感じが伝わってきます。マタイ伝では、一度きりのような感じを与えます。これが明確になるのは、同じ「私たちに」を挟んだ最後の副詞句です。ルカ伝は、「それぞれの日に」とあり、いまもいつも、という動詞と繋がります。マタイ伝は一語で「今日」という限定された表現になっています。
 
実は、個人的な訳を含め、この祈りは、マタイ伝に限っても、いろいろな日本語訳が存在しています。各人の理解や解釈に基づくものですが、ここは学問の場ではありませんから、それらを逐一ここでご紹介することはできません。私たちはマタイ伝で「主の祈り」を追っていますから、この祈りの問題を、「私たちの・日ごとの・糧」という三つの言葉を鍵にして受け止めてみようと思います。
 
原語では、「私たちの糧」というように、はっきりと「私たちの」という語があるからです。そこで以下、これらを、原語で登場する順番に「糧・私たちの・日ごとの」の順に検討しようと最初考えたのですが、お話の都合上、「糧・日ごとの・私たちの」の順番でお話しすることとします。ご容赦ください。
 

◆糧

先ず、「糧」についてです。これが、定冠詞付きで、この祈りの初めに位置します。英語ではこれはほぼすべて「bread」と訳されます。日本語だと、ポルトガル語系統の「パン」です。日本人が読むならこれは「米」だろう、と言う人もいます。その通りです。しかしパンもそうかもしれませんが、日本語にもとても便利な言葉があります。「ごはん」です。これは「米」を表すと共に、「食事一般」を表すこともできる語です。「糧」という語は少々硬いですが、なかなか手際の良い言葉であると言えるでしょう。
 
旧約聖書はイスラエルの歴史を記録すると共に、イエスをそこから期待されたメシアであると捉えるのが新約聖書ですから、「予型」などと言って、イエスの教えの原型がそこかしこらある、と考えられています。
 
私が思い起こすのは、出エジプト記の16章です。エジプトを脱出したイスラエル民族は、記述では何十万人といますから、食糧問題は重大でした。エジプトにいたときには、奴隷の仕事に喘いでいましたが、飢え死にしてはエジプトとしても労働力がなくなりますから、食べ物は与えられていました。それに比べると、いまは奴隷の身から自由になったかもしれませんが、食糧が確保できません。
 
自分の好きな仕事をして貧しいか、意に沿わない仕事をしても豊かな生活をするか、その辺りの葛藤を思い浮かべる人がいるかもしれません。ともかく、イスラエルの民は、必死でした。よく私たちは、彼らが頑なだとか、贅沢から文句を言うとか、簡単に批判するような口を利きますが、とんでもないことだと思います。生きるか死ぬか、まさに生存について切羽詰まった情況になつたのです。生きるための苦しみを、決して軽く見ることはできません。私たちは、世界における飢餓問題を、どこか他人事のように見ていないでしょうか。しかし国内でも飢餓状態にある人は少なからずいるのです。自分が当事者にならなければ、その苦しみというものを実感できないのは仕方がないにしても、本当に飢え渇いている人々のことを想像できているか、問われているような気がします。
 
イエスにも、この飢餓がありました。いわゆる「荒野の誘惑」です。細かく辿りませんが、宣教を始める前に、イエスはひとり荒野で40日間、悪魔の誘惑を受けました。マタイ伝でもルカ伝でも、その最初に、この石をパンにしてみよ、との誘惑を受けた、と記されています。イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく/神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4)と、申命記8:3の言葉を引用して、悪魔を退けました。しかし、「パンで」とは言わずに「パンだけで」と言ったことには気をつけなければなりません。パンも必要なのです。イスラエルの民が、出エジプトにおいて、パンを求めたことを、軽く見下してはならないのです。
 
イエスはまた、パンを増やした奇蹟を起こしました。これは四つの福音書すべてに描かれている、珍しい事件です。初期の教会により、よほど大切に考えられたのだろうと思います。イエスは、人々の肉体をも支えました。但し、人々はこれによって、イエスがパンをもたらしてくれるという方向で熱狂するようになります。パンを求めてどこまでも追いかけてゆくのです。これは、イエスにとり不本意でした。目に見えるパンの向こう側にいる「神」を見てほしかったのだと思います。現実のパンは大切ですが、その向こうに「神」を知るかどうか、それも大切なことなのです。
 
ルターは、この「パン」というものに、生活の様々なものを読み込んで教えています。それでも、まだその見方も役立つとは思います。しかし私たちは、視野を余りに拡げすぎないようにしましょう。さしあたり「パン」は実際の食べ物であり、それがないと生きていけないものです。そして、「神」はその「パン」の向こうに透けて見えるというくらいから、始めてみてよいのだろうと思います。
 

◆日ごとの

次は「日ごとの」という部分です。ルカ伝にもマタイ伝にも、同じ言葉が使われているのですが、この語は実は曰く付きの言葉です。聖書についての説明ではしばしば言及されるのですが、この語が、どうも聖書の他の文献では見つからないのだというのです。そのため、福音書をまとめたグループの造語ではないか、とも考えられました。
 
ところが、ある方の指摘を受けますと、実は後にエジプトのパピルスの中で、やや活用が異なる形ですけれども、見つかった、ということです。但し、5世紀と時期がだいぶずれますので、福音書の言葉との関連は確認できないようです。その語が置かれていたのは、「支払明細」のような事務的な場面でした。その当日の食糧を意味していたというらしいのです。
 
私たちはその日の食糧があってこそ、生きてゆくことができます。働いてお金を得ることを、「食べていく」という言葉で示すほど、私たちは労働の場面でも、「食べる」ことを中心に置いています。結局、その日その日にものを食べていかないと、人は生きてゆくことができません。命は、確かにパンによって支えられているのです。
 
祈りは、毎日毎日、食べていかなければ生きてゆけない、私たちのあり方を踏まえています。これを、自分の稼ぎによって賄ってゆく、それが普通の考え方です。しかし「主の祈り」は、これを「与えてください」と願っています。それを与えてください。毎日与えてください。
 
神を介するのでなければ、毎日与えられるという出来事は起こりません。私たちはやはり、神と向き合っていなければ、生きることができません。その私たちが必死で呼びかけて、神を呼び止める――宗教とはそういうものだ、と考える人がいます。しかし、聖書の神は必ずしもそうではありません。神のほうから、私たちに呼びかけています。それは随所で感じ取ることができます。
 
私たちは、生きてゆくための毎日の食べ物についても、神を頼りにするような存在です。そのような神と、いつも向き合っています。人間自身の正義とやらを振りかざすのではなく、また人間自身の力でやりぬくなどと思うことなく、神からの声を聴くように天を見上げることこそが、「主の祈り」のエッセンスであるように感じます。
 
神の呼びかけに応答するのです。ただ、その応答は、誰にも強制されているわけではありません。私たちは、それぞれに、自由に応答します。それが、一人ひとりの「信仰」になります。この「糧」については、それが間違いなく、毎日毎日の中で祈り、毎日毎日、神と向き合っていることを踏まえていなければならない、というわけです。
 

◆いまここにあるもの

私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)
 
マタイの「今日」は、ルカでは「毎日」という別の語である、ということについては、先に触れました。私たちは、今回マタイ伝に基本的に沿っています。マタイが「今日」という限定を与える一方、ルカは「それぞれの・日に」という語を使っていました。私はこれを大きく食い違うものと受け止める必要はない、と考えました。
 
もちろん語感は異なりますが、人の「時」は、神の「時」からすれば、そもそもが限定的なものです。イエス・キリストは昨日も今日も変わることがなく、神が「時」の中で制約を受けるとう捉え方をする必要もありません。
 
私たちに必要なのは、それを「いま・ここ」で確かに受け止めることです。自分が呼ばれていること、自分が神の前に立っているという意識です。現にいま、私にはパンが与えられています。物足りないと思う場合もあります。しかし、神から見ればそれで十分なものだと受け止めることは、できるのです。
 
いえ、苦しい人がいるとは思います。自分の今日の食べ物に苦労している人が、世の中にはたくさんいます。身近なところに、いるかもしれません。私たちが気づいていなくても、そこにいるかもしれません。いえ、きっといます。そしてそれを知るのであるのならば、私たちは、自分に与えられた今日の糧に対する思いを、考えなければなりません。
 
私に対しては、糧は今日のものとして、確かに与えられているはずです。自分の皿の上に、食べきれなかった食べ物が残っていないでしょうか。自分のためには、日ごとの必要はもう与えられたということであり、それ以上のものが残っていることになります。目の前に残っているものは、自分には不必要なものだったわけです。
 
それは、誰のものなのでしょうか。誰かにとって必要なものだったのではないのでしょうか。「日ごとの糧」というところから、そこまで思いを向けてゆく。それが祈りというものではないのか、と私は思います。
 

◆私たちの

最後に、「私たちの」という言葉に注目します。「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」というマタイの祈りの言葉の中に、「私たちに」という与格の代名詞がありますが、それとは別に、「糧」の語のすぐ後に続いて、「私たちの」という属格の代名詞が確かにあります。そのことについては、初めのところでも触れておきました。
 
もちろん、「私たちに」ということであってもよいのです。気づくべきは、この祈りが「私に」でも「私の」でも亡くて、「私たちに」「私たちの」を舞台に後半展開するということです。「こう祈りなさい」と教えた祈りは、自分一人のためのものではなくて、「私たち」のためのものであった、ということです。
 
「私たち」は、さしあたり「教会」としておきましょう。ご存じのとおり、「教会」とは建物でもなく、組織でもありません。主イエスにつながる者一人ひとりが集まったものです。救われた人々なのです。「教会」と呼ぶと建物などと誤解されそうな場合には、「共同体」とでも呼べばよいでしょうか。「主の祈り」は、共同体の祈りだったのです。
 
もちろん神は愛であり、一人ひとりを愛しています。「Jesus loves me」でよいのです。しかしまた、自分が愛されていると確信する者たちは、その同じ神の愛を分かち合うことでしょう。神の愛を受けて、私は自分のために祈ります。その祈りは、世の中の政治経済に拡がってよいと思います。さらには、それが世界の平和へと向けられてゆくことだろうと捉えて、きっとよいと思います。
 
そうなればまた、「私たち」というのが、自分たちの小さな教会の内部だけで済むものではない、というふうにも考えたいものだと思います。まずは教会が、地域にあるというところから、地域を愛するために、そこにあると見ては如何でしょう。また、教会に足を踏み入れない人にも、呼びかけていくというのはどうでしょう。
 
仲良し倶楽部のように、あるいは秘密結社のように、閉じこもることで「私たち」と呼ぶ面々を規定しているとしたら、寂しくはないでしょうか。近年、子ども食堂のような活動を行う教会も現れています。角田光代さんの新しい小説『方舟を燃やす』にも、教会を舞台にそうした活動をしている場面が描かれていました。これは教会としては、会場を提供するだけのものに過ぎませんでしたが、それもまた教会の役割を果たすひとつではないかと思います。せっかく人を集める施設として町の中心に立派な会堂を構えておきながら、貸出を渋ったり、貸し出さない方針を決めたりする教会があるのは残念です。
 
子ども食堂となると、一か月に一度しかできないようなところも多いようですが、かつて西欧の教会は、そうした活動をするところ、という認識であった場合がある、とも聞いています。人はパンのみで生きるのではない、ということが真実だとするならば、ただ食事を提供するだけがすべてではないものと見ることが可能でしょう。
 
都会の真ん中で親子が餓死するといったショッキングな報道が以前ありました。虐待死事件も時折報道されます。こうした悲しいことの犠牲者はしばしば子どもたちなのですが、それは、親たちが、誰かとつながりをもたないでいるところに、大きな原因があったと見ることはできないでしょうか。教会が、人々をつなぐために開かれていたら、助かる命もあったのではないか、とも思うのです。
 

◆戦争

戦争が、世界的な関心のひとつになっています。悔しい思いを噛みしめながら、なんとかならないか、という思いでいるキリスト者も少なくないと思います。日本でも、先日は沖縄の「慰霊の日」に、追悼式が行われました。遺族の方々の思いを形だけしか受け止められないような声が、巷から聞こえて残念に思うこともありました。6月23日という日付は、必ずしも沖縄の人々第一で決められたものではありません。8月15日という日付が、天皇中心ということのほかには、法的にも実質的にも、意味がないにも拘らず、いまなおキリスト教界ですら、15日を戦争の終了だと口にするのを見ると、複雑な気持ちです。天皇制を批判しながらも、結局天皇制の仕組みの中で踊らされているだけだからです。
 
また、沖縄戦のことなど一度もSNSの記事にしない人が、6月23日に初めて「沖縄を忘れないように」と書きこんでいましたが、恐らくはご自分が忘れていたのだろうと思います。そして「そう言えば……」と、報道を聞いて、思い出したのだろうと思うのです。というのは、さらに、ガザのことと沖縄とが重なって見える、というようなことも書き加えているのを見ると、ぞっとしました。ガザと沖縄の、どこが重なるのか、私には分かりません。ふだん考えていないことや知らないことについて意見を言うと、ばれてしまうものなのです。
 
振り返ると、私も他人のことをとやかく言える立場ではありません。「戦争」についても、軽く言い放ち自分の考えが物事を解決するかのような態度をとることは、慎まなければなりません。それでも、訝しく思うことについては、声を挙げます。政情を弁えない無知な理想などと言われようと、考える意味のあることは、言わねばなりません。
 
戦争のための費用が、どれだけの人の飢えを無くすことができるでしょうか。軍備防衛などという必要や、抑止力などという理論を差し置いても、一部の人々の食べ物をミサイルや戦車に変えてしまうことを、それでよい、とは考えたくないのです。
 
武器で殺し合うだけが「戦争」ではないと思います。経済戦争もまた、飢える人を生みます。格差社会がある以上、ありあまる食べ物を捨てる人と、今日の食べ物が得られない人とをつくりだしてしまいます。
 
心にも「戦争」はあるでしょうか。「いじめ」は子どもたちの専売特許ではありません。むしろ大人社会に「いじめ」があるから、子どもたちも当然のようにするとは言えないでしょうか。他人を心で殺すことは、もう私たちの日常茶飯事です。ヘイトスピーチというと、街頭でわざわざ叫んでいるようなイメージをもつ人がいるかもしれませんが、SNSで次々と「ヘイトクライム」にも等しいことを吐き出している人もいます。しかも、自分は正しい、という正義感から確信犯としてやっていますし、キリスト教徒と自称するような者も、平気でやっています。
 
声高に叫ぶ一部の者たちにより、「戦争」は美化されます。「英霊」と神格化されて、果たして当人は嬉しいと思うでしょうか。生きている側の、ある意図をもった者たちにより、都合の好いように利用しているということはないのでしょうか。
 
戦争は、食べ物に影響を与えるでしょう。「日ごとの糧」を妨げるようになるでしょう。現場の人々にとり、「日ごとの糧」を与えてください、というのは、もはや観念の問題ではありません。「主の祈り」は、すべて切実な祈りであるはずなのです。抽象的な世界のことではなく、現実の祈りなのだ、ということを教えるために、この祈りの中央に、「日ごとの糧」を「今日」与えてください、との祈りを据えるように、イエスは力を入れたのかもしれません。

◆キリストの業

私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)
 
パンを求めての祈りです。そして、「私たち」という言葉を二つも添えることによって、これが複数の仲間たちのための祈りであることを知りました。パンを求めるだけでなく、共に食す仲間を求める祈りでもありました。
 
それは、教会という共同体において、「聖餐」の出来事のことでした。プロテスタントでは、多くて月に一度、少なければ年に三度程度しか行わない「聖餐式」であるかもしれません。しかもコロナ禍以来、感染予防のためにとりやめたり、実施できなかったりすることが続いています。リモートで説教は届けられても、聖餐そのものを届けることは不可能です。何かしら代替案が用いられるようになったら、と願います。そうすれば、入院生活や施設での生活を強いられているキリスト者も、同じ交わりに入ることができるでしょう。
 
ある程度バーチャルであっても、何かできないかしら、と思います。よく言うのですが、パウロだったら、喜んでアジア各地とリモート礼拝でも何でもしたのではないか、と想像するものです。
 
「聖餐」、それはキリストを食すことです。パンとぶどう酒の儀式は、最後の晩餐のエピソードを基に、パウロも引き継ぎ、信ずる者たちの間で、命を分け与えてきました。その意味については、教派によりいろいろあるようですが、「キリストを食す」ということについては、象徴的であるか否かに拘わらず、キリスト教会は共通理解をしているのだろうと思います。
 
ところで、「キリストを着なさい」という命令も、書簡の中にありました。また、私たちがキリストの内にあると同時に、キリストが我が内にいる、というミステリーも、キリスト教の大切な教えでした。すると、面白いことに、「衣・食・住」のすべてにわたって、全部がキリストになぞらえられていることに気づきます。キリストは、人間の衣食住という生活のすべてにわたって、「主」であることになります。
 
私たちに委ねられた、イエスのパンがあります。イエスの体のことですが、イエスの与える命のことでもあります。キリスト者は、イエスからそれを受けると共に、それを運ぶように言い渡されました。この世のパンは必要です。それを行き渡らせることができますように。この世界を神の国とするためです。世界は神の国にはならないでしょうが、神の国の完成を待つにしても、神の国はもう始まっているはずだからです。
 
キリストの業は、現実に働きます。それも、キリストと出会い、キリストの言葉に生かされた者が、働きます。
 
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)
 
今度はこの「私たち」が、キリスト者だとか、教会だとかいう枠を超えて、すべての隣人に、すべての生きる仲間たちへ、と拡がって呼ばれるように、思えるようになりませんか。「日ごとの糧」を、そこへと届けるためにも、求めたいと思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?