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『この理不尽な世界で「なぜ」と問う』

(魯恩碩[ロ ウンソク]・CCCメディアハウス)
 
2021年8月発行の本。表紙からカバーにかけて、やたら文字が並んでいる。正式なサブタイトルは、「ICU式「神学的」人生講義」のようである。そして長いタイトルがあり、カバーには、「資本主義社会を倫理的に生きることは可能か?」とか「愛し、赦し、共に生きるための「究極のリベラルアーツ」とか書いてある。小さな文字で「国際基督教大学の必須教養科目を書籍化」とも記されている。400頁を越えてきて、今時1700円+税とはお買い得感覚である。
 
ここには、教授に加えて、学生や留学生が一定数登場する。彼らの仮名による名前と、その立場や思想や性格については、最初に紹介されているので、ありがちなグループ対談に比べて、どういう立場や考え方で発言しているかが非常に分かりやすい。よい配慮である。
 
著者であるこの教授は、「キリスト教概論」を教えており、学生たちとの現場におけるアカデミックな対話がここに公開されているというふうに考えてもよいだろう。一方的に教授が説を語り続けるタイプではなく、教授は問題提起をして学生に考えさせ、できる限り教授は司会に徹しようとするものと言えるだろう。マイケル・サンデルがこれをテレビで公開して有名になったが、この方式は学生に自由に語らせているかのようで、その実、教授が巧みに誘導して、自分の話して聞かせたいことを出せるように、上手に誘導している側面がかなり強い。それができるというのが、教授の力量であるだろうとは思う。
 
学生の「なぜ」という精神を育むためのものである、と本書は断り書きをしているが、本書の中で学生たちが自由に発言しているのを見ると、それはかなりうまくいっているのではないかと感じた。
 
興味深いテーマが目白押しで、一つひとつ取り上げたい気がするが、それは本書をどうぞお読みください、ということにしておく。ただ、第十講だけ挙げると、これが本書のタイトルになった問題であった。だがここは、入っていくと「祈り」についてのレクチャーであった。巧みな司会により、終始「祈り」をとりまく展開となっていたので、ある意味では期待外れであった。キリスト教の「祈り」の意味やその実際を紹介するようなことで終わってしまったからである。その意味ではこのタイトルでよかったのか、という気持ちが残った。
 
学生の中には、キリスト者もいて、聖書の話となると生き生きと、かなり素直な聖書理解から発言することが多く、だがそうした学生がいることは議論の中で一つの立場をよく語ってくれるよい存在だったと思うのだが、他方信仰をもたない者、むしろ反対者もいたのが、議論をさらに有意義にしてくれていたと感じた。とくにドイツからの留学生は、信仰はもたず神の存在に現実性をもたないのであるが、聖書については知識がかなりあるために、しばしば鋭い指摘をしてくれて、対話に良い緊張をもたらしてくれたと思う。
 
その発言を、司会者たる教授がほどよくいなし、なんとか自分の準備した方向に進めていこうと努めていたが(それを「バイアスがかかっていますね」と指摘した学生がいたのは見事)、そういうとき私は、それ以上突っ込みをしなかった学生に、かなり分があるという気がした。キリスト教に対する疑問や聖書への批判は、尤もなのである。
 
そう、全般的に評するなら、本書は、キリスト教信仰をもつ教授が、キリスト教の立場から、幾多の問題点を検討しようとしており、もちろんそれは当然あって然るべきなことであるのだが、保守的でキリスト教を弁護するような気持ちから、キリスト教側にとり自己弁護となるような主張や論点をしきりに紹介し、それへの疑問をぶつける学生の声に対して、時折あまりまともに向き合わず、立ち消えにさせるようなことが幾度かあったように見受けられた。
 
もちろん、問題点を聖書から考えようとするときの、きっかけとしての意義は認めるべきだし、このように様々な観点があること、歴史の中で検討されてきたことを弁えておくことは必要なことである。そのための素材を提供しているということで、本書は大いに挑戦的であり、存在意義をもつということは確かである。ただ、この教授のまとめ方がすべてではないし、むしろ問題点を放置した上で、聖書の中ですでに解決されているかのような印象をもたせることがあったのは、好ましいことではないと思った。むしろ、幾多の学生の疑問や意見というもののほうが、若々しくてしばしばそれは知見の足りないところがあるにしても、再検討していかねばならない声として取り上げるべきだという印象をもった。それでも、読者がそれを受け継げばいい。意義深い本となったことは確かである。

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