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松居直さんと聖書のこと

松居直(ただし)さんが亡くなったのは、2022年11月2日のことだった。悲しかった。いくらかの本を読んでいたのもあるし、信仰者として尊敬していた面もあった。特に、私がずっと懐いていた絵本についての考えを、支えてくれることを言っていた人だ、というように後から知ったとき、本当にうれしく思ったからであった。
 
先日、Eテレの「こころの時代」で、松居直さんのインタビュー番組が再放送された。2001年9月2日に放送されたものである。この再放送を録画して拝見し、改めて深く心に感じることがあった。もちろん、番組紹介をレポートするつもりではないので、私の注目した次の点だけについて、お伝えしたいと思う。
 
松居直さんは最初に、「絵本は読み聞かせるもの」だと言った。自分で読むものではないのだ、と。これは松居さんがいつも主張することである。ところがこの番組でのお話を聞いていると、ただそれだけではないことを、私は強く感じたのである。
 
読み聞かせ。それは、子どもにとり、絵を見ることと、読まれる声を聞く、ということを意味する。絵本の絵は、もちろん止まっている。そこへ語りが聞こえる。子どもの目は絵本に集中する。聞こえる言葉は、その絵本の静止画を、やがて動かす。絵が動いていく。そうして、絵と声が一つになっていく。
 
但し、ろうの子どもの場合は、手話をも見ることになる。だから絵本の絵と同時性が保たれにくいかもしれない。この辺りは、本人の感覚というものを聞いてみなければ分からない。いまは、聴者の子どもをモデルにしておくことをお許し願いたい。
 
松居さんは、これを「絵本体験」と呼ぶ。それは、ご自身が母親に読み聞かせをしてもらった思い出が重なって言われていることであるらしい。
 
番組では触れられていなかったが、松居さんはディズニー映画の流行に警笛を鳴らしている。絵が動くことは、子どもにとり必ずしもよいことではない。子どもの心の中で絵を動かすという体験を封じてしまうからだ。子ども自らの心が動き出すという体験を、すっかり消してしまうかどうかは別として、動画の押しつけがましい支配力から、どこか逃れる場は、確かに必要であろうと思われる。
 
物静かな画面に加えて、外から声がして、それらが自分の心の中で溶け合ってひとつになる。それは自分の心を知ることにもなるし、世界に潜む可能性というものへ思いを馳せることにもつながるだろう。
 
もうお気づきだろうと思う。これは、正に聖書の読み方に外ならない。聖書という文字を見る。それは止まっている。文字そのものはそこに静止しているものである。だがそれを読むという時間の流れの中で、外から聞こえるものがある。音声としてでないにしても、その声は確かに聞こえる。私の外から聞こえてくる。文字だけだとひとは生きないが、霊はひとを生かす。そう、神の呼びかけである。
 
神は呼びかけている。ただ、私たちがしばしば聞く耳をもっていない。ただ、それが聞こえるとなると、聖書の文字とその声との一体化という現象が始まる。イエスの言葉や、神から授かった様々な筆者の経験から投げ出される言葉が、いま私の外から及ぶ声と重なり、ひとつになる。このとき、静止したはずの言葉が動き始める。私自身をそこに招き、私自身が顧みられるようになる。「聖書をどう読むか」、それは各自ご自由にということなのであろうが、ここに挙げたような「聖書体験」こそが、聖書の言葉を「命」にする。ひとを「生きる」者とする「命」がそこにある。それは言えるだろうと思う。
 
文字であっただけの言葉は、それを客観視している限りは、ただの文字である。如何に聖書を研究したとしても、それだけでは、文字であることを超えることはできない。たとえそこから何かを学んだつもりになり、教えられると感じたとしても、しょせんそう学び、感じ、判断しているのは、人間という主体である。人間の知恵がそう学び、感じ、判断しているのであって、外から与えられるものではない。そのように外から及ぶものを「恵み」と呼ぶのだとすると、主体から聖書を読むという行為は、恵みとは無縁のものと言わざるをえない。
 
恵みを恵みとして受け取るときに、文字になった言葉は生きてくる。言葉の力はそこに現われる。ヨハネによる福音書は、神こそが言葉であったとするが、その「言葉」という語が「理」のようなものを示す語であることからすると、それはむしろ、世間で言う理というようなものは、すべてイエスの中にあるのだ、ということを言おうとしているに違いない。イエスの出来事が描かれる聖書を見る私たちに、恵みが注がれ、その聖書の中に自身が確かに参与するものとなる。聖書の物語が、私自身の経験となる。
 
そのとき私は、生きていく力を与えられる。子どもは、絵本を通して、そのような体験をしている。見えないものが見えるように、育まれる。なにせいま絵は動いていないのに、自分の中でそれが動き始めるのだ。そして自身をそこに巻き込み、物語を体験させてくれるのだ。そうした子どもの力を信じることが、大人には求められるだろう。そして、聖書についてもそのような次元で聖書の物語を経験した人同士が、互いに神の霊の内に生かされている者だという信頼でつながることができる。
 
もちろん、松居さんはそのようなことを言っているわけではない。これはあくまでも、松居さんの絵本に対する思いを、私のほうで勝手にアレンジしたものである。ただ私は、松居さんのこの考えを知らないうちに、我が子にはせっせと絵本の読み聞かせを実践していた。松居さんの理論などは分かっていなかったが、絵本の読み聞かせはきっとよいことだ、と、何かに取り憑かれたように、読み聞かせをずっと続けていた。
 
絵本を自ら買うこともあったし、絵本をくださる方にも恵まれた。図書館の近くに住むようになったことは、何よりもすばらしい住居条件だったと喜んでいた。だから、その後松居さんの読み聞かせについての考えを知ったとき、本当にうれしかった。ただ、この読み聞かせについては、語る私自身が、とても楽しかったからそうしていた、とも思い返す。何かの効果を期待していたわけでもないし、語る私が、楽しかった。
 
それは、私がまるで神の役を演じたかのような図式になっていることにもなるだろう。もちろん、神になっているわけでもないし、神になったつもりになるようなことも許されない。しかし、説教者が神の言葉を語るということに、何か通じるものがあるのではないか、ということに、後に気づくようになった。
 
但し、そのようにして語られたことは、アニメーションのように、押しつけがましいものとなってはならない。何かしらヒントを提供するものとして留まらなければならないであろう。言い放たれた言葉は、それ自身が絵本のような役割を果たすのであれかしと願う。あとは、聞く方が自ら、それの外から聞こえる神の声を受信し、それぞれの方の中の新たな体験が生まれていくようであるに違いないと思う。

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