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『疫病の精神史』(竹下節子・ちくま新書・2021年6月)

カトリックでの宗教文化とくればいま一番脂ののった論者かもしれない。パリ在住で、ヨーロッパの今にも詳しい。キリスト教文化についての分かりやすい著作が近年多く、信頼性も高い。このちくま新書からも、『キリスト教の真実』と『女のキリスト教史』が先に出されており、興味深く読ませてもらった。ズバッと言い切ってくれるところなど、むしろ清々しい印象すら与えるものである。
 
この新型コロナウイルスで日本もだが、欧米がひっくり返されたようになったが、その中で、まさに「疫病」について歴史の中から光を当ててくれるものが、ようやく現れた。キリスト教のことを十分分かった人が、適切に説いてくれるのはありがたい。
 
導入は、もちろん新型コロナウイルスである。神や祈りはなんのためにあるのか。それを問いかけたと理解する。信仰なるものが、人類の活動の根柢にあるものとしての構えから、著者はこの事態の中で神を信じることの意義を問う。
 
イエスは地上で、人々を癒やして旅を続けた。医療行為が宗教的救済なのかというのは、問うべきではない。病の癒しが、救いだったのだ。それが罪の赦しであったのだ。このようなことから始まり、著者はなんと、キリスト教の救いとは何かということをも読者に示す。こうして、旧約聖書に始まり、聖書と病気、とくに本書のテーマである疫病についての本筋が始まることになる。これは聖書を読んでいるつもりの者をも反省させることだろう。それはどうしても終末論に私たちを導いていく。
 
その後のキリスト教の歴史における医療をも振り返る。ホスピタルという言葉が、もてなしに由来していることは有名であるが、中世から近世にかけての身体観など、思想的にも興味深い。また、カトリック由来である故の強みは、「聖人」というものを持ち出すことができることである。そういう視点を含めなければ、かつてのペストについても語ることができないのだということに気づかされる。
 
衛生観念は現代と異なった。食事の前に手を洗うというのは、純粋に宗教的な事柄なのであって、「清め」のひとつであった。この衛生観念は、西洋文明にも引き継がれる。感染症の流行を浴びて、ようやく衛生観念が芽生え、発達していくのである。その説き明かしの中で、西洋の歴史も学べるというのだから、本書の懐は非常に広い。
 
しかしなんと言っても、キリスト者が読まねばならないのは、最終章の「医学か宗教か」というところである。ここはもう全文引用したいほどである。ここには現代の視点をも含めた「永遠の命」の解釈が提示されるね。パスツールの名が「羊飼い」でもあるという偶然をも、著者は必然のことのようにもたらしてくるから、心憎い。そのパスツール、見えない悪魔を、細菌やウイルスという目に見えるものとして示すことをやったのだ。疫病が悪魔だとしても、それは人間が対決できる正体の明らかな存在となったのだ。神の癒し、救いの業は、ワクチンという形で迫ってくる。新型コロナウイルスの時代、ワクチンがまるで信仰の対象のように扱われていることを私はひしひしと感じたが、それを裏付ける歴史と表象とを、本書に見いだしたのはひとつの喜びであった。その他、出エジプトを阻む頑ななファラオが、実は私たち人間の姿そのものであるというようなことも触れるところがあったが、私はまことに膝を打つ思いだった。
 
私たちは今、どこから感染するか分からないウイルスに怯えるものだが、それはかつて悪魔を恐れていたのとパラレルであるといえる。恐れていた悪は、いまや一定のメカニズムの判明した、ウイルスという存在に取って代わられた。そのため、かつての魔女狩りすらいま再生しているし、司祭は医師の姿をとっている。イエスの姿すら、献身的な医療従事者たちの中に私たちは感じないだろうか。著者はこのような世の中において、なおも、神やイエスをどのように考えるか、という場を設ける。今ここで、「信仰」はどういうあり方をすることができるのだろうか。保ち続ける信仰があるだろうか。苦しいときだけ神頼みをするような信仰しかないのだろうか。それとも、そうした信仰すら全くないのであろうか。医学の使命の中に、信仰はどのように生きる可能性があるのだろうか。
 
著者の思いを十分伝える能力は私にはないが、「永遠の命」に加えて、「よく生きる」という哲学のテーマも気にしないでいる政治の状況の中で、弱い立場の人たちを救う信仰を、聖書や神を知る者は、真摯に求め、また伝えていく必要があるのではないか、考えさせられる。それを、疫病を軸として歴史を振り返り、また聖書を繙き、いまの世界を「冷静に、適切な距離を置いて、信頼と共に」見ることを、著者は提言している。それを私たちが「共に生きる」、あるいは「共に苦しむ」中で、信仰と希望と愛を携えて、思索し、行動するように求められているのではないだろうか。新書という媒体の中で、まことに欲張った主張であるかもしれないが、私は新書だからこそ、思い切りこのような声を挙げてもらってよかったと感謝している。私もその声に、自分の声を重ねようと思う。

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