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やってもいいんだよね

試験監督をする。模試である。中学生たちが並ぶ。雰囲気は悪くない。しばらくして、最後まで解答した生徒が、ぽつぽつ現れる。
 
その中で、終わったということで、もう見直しなどしない男子生徒がいた。実は、これまでも彼はそういうふうだった。様子を見ていたが、手近な文具で遊ぶ。それから、ジュースを飲む。暑さの中、水分補給を私は許可しておいたためだ。だが彼は、残り時間がずいぶんあるわけで、少々文具で遊んだくらいでは時間を潰せない。それで、ペットボトルを取り出して飲む。少したつと、また手持ち無沙汰のためにまた飲む。することがないからだ。
 
なるべく公平を喫するために、特別に個人に注意をしたくはない。いくら私が睨んでも、気にすることもない。しかし、ちびちび甘いものを3分とたたずにまた口に運ぶことを続けるのを見て、近くに行き注意をした。よくないことではあった。
 
水分補給を許可したのは、退屈紛れにちまちま飲むために許可したのではない。
 
しかし、彼には届くまい。飲んでいいって言ったじゃん、という具合か。――彼の名誉のために言っておくが、何も悪さをする子ではない。勉強をするために学習塾に来ている。おそらくは、それなりに問題に対して答えることはできるのである。だからこそ、早々と書き終えるのであって、その後の時間にすることがないため退屈なのである。
 
テスト中、最後まで答案用紙と問題用紙を食い入るように見つめ続ける生徒がいる。二つのタイプがそこにある。いくら考えても分からない、あるいは解くのが遅くてまだ終わらない生徒。要するにあまり成績が芳しくないパターンだ。もう一つのタイプは、優秀な生徒。もちろんすでに解き終わっている。だが、どこかに間違いがないか、最後まで追究を諦めないのである。
 
その中間で、ほどよく勉強ができて、理解力もある生徒であるが、最後まで仕事を点検するような気持ちをもたないタイプが、早く解答欄を埋めるけれども、その後退屈を持て余すというわけである。
 
さて、そのテストへの姿勢は、また今後「学習」してもらわねばならない。ただ、水分補給を許可するこちらの意図を汲み取らず、「自由に飲んでいいんでしょ」とちびちび飲むという姿勢については、少しばかり問題が残る。このような考え方は、なかなか修正されないからだ。その生徒をとやかく言うつもりはもうないが、このとき私の脳裏に浮かんだ最近のニュースがあった。
 
東京都知事選挙で、話題になっている者たちがいる。選挙ポスターについて、非常識なことをしたのだ。どうやら規制する法がなかったらしい。同じグループの以前の選挙妨害においてもそうだったが、今回も、選挙運動に関するために、無闇に否定することのやりにくい現状がある。議員の不逮捕特権のように、政敵を陥れる策略を防ぐためである。そうでないと、某国のように、大統領に立候補するライバルを、書類の不備で候補失格、というような独裁的な「正当化」がまかり通ることになるだろう。
 
選挙制度をぶっつぶせ、などと幼稚なことを言いながら、法で罰されないようなぎりぎりのふざけたことを堂々とする。江川投手の空白の一日事件を知るひとも少なくなっただろうが、良識を信頼して、そんなことまで決める必要がない、という決め方がなされている制度を、「いや、違反はしてないでしょ」というように、信頼を裏切ることを平気で行うことができる、というのは、元来の性質に基づくのではないかと思われる。こういうのは、心を入れ替えるよりほかには、まず直らない。
 
まさか、聖書に対しても、「これは聖書には書いていないでしょ」と、自分のしたい放題をするということをする、自称信徒はいないものと思いたいが、果たしてどんなだか。パウロは、赦されたから何をしてもいい、と考えることは愚かだ、と盛んに吠えていたが、パウロばかりでなく、イエスもまた、その辺りには憤ることしきりであっただろう。

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