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『ケアする声のメディア』(小川明子・青弓社)

NHKのドキュメンタリー番組『病院ラジオ』は、2018年に始まっている。サンドウィッチマンの二人が地方の病院に出向き、そこで臨時のラジオ局を開設する。患者を一人ずつ呼び、病気のことはもちろん、その家族や人生について話を聞く。そしてリクエスト曲をひとつかける。
 
この番組、できるだけ見るようにしているが、実にいい。今年は福岡の病院が舞台だった。患者と言っても、入院患者であり、かなりの重病であることが少なくない。このままいけば余命が限られている、というようなケースもあるが、東日本大震災以来実にシリアスな話も多くなったサンドウィッチマンの尋ね方が、実にいい。悲壮感もなければ、ふざけたような場面もない。適度なユーモアを含ませることができるのは、さすがお笑いの道でトップを走る2人である。好印象の番組の筆頭に挙げられることが多い。
 
本書は、その番組を扱ったものではない。むしろ、もっと広い立場から「病院ラジオ」というものについて、実態や背景、またその意義などについて、細かく紹介してくれる本である。サブタイトルは「ホスピタルラジオという希望」と書かれている。正にそれは「希望」なのだ。
 
日本では、1925年に、ラジオ放送開始百年を迎える。しかしその開始以前に、イギリスでは既に、このホスピタルラジオの構想と慈善活動が始まっていたという。従って本書は、ラジオ全体の百年を何らかの形で私たちの目の前に突きつけてくれるものとなった。
 
とはいえ、これは「病院」での在り方を軸としており、その点でブレることはない。
 
もし、私たちの企業内で、昼休みにでも、車内放送があったらどうだろう。テレビ画面ではなく、音だけのラジオである。食事をしながらでも耳だけ傾けることができる。そればかりではない。会社の話題がふんだんに出る。同じ職場に、こんな人がいる。その人知ってる。そうそう、部長ってそうだよな。楽しげではないだろうか。芸能人が喋る一般のラジオとは違った、親近感があるだろうし、隣りにいる社員たちとの共通項がそこに流れてくる。
 
病院でも、それに近い効果が考えられるであろう。しかしまた、病院という場特有の問題がそこにある。誰もが、不安なのだ。苦痛を抱えてもいるし、絶望感に見舞われているかもしれない。そして、互いに患者同士に深入りした話はできないし、病気や治療の核心を突く単語すら、出てこないだろう。さらに言えば、「孤独」を抱えているのではないだろうか。ともかく、そこでは身体的なケアが待たれている中で、心のケアが求められているのであろう。
 
著者は、メディア論の立場からこの風景を見ている。日本の若い人たちが、いまラジオ文化から遠いところにいる。かつては、深夜放送は若者文化の代表であったのが、嘘みたいである。当時はDJと言い、後にパーソナリティと言うようになったが、一対一で向き合っているような仮想空間を覚え、自分のために語りかけてくれているように感じていた。そこに「おたより」を出した。次の週に読まれるかどうか、ドキドキして待つこともあったし、景品が当たるかどうかも楽しみだった。しかしいまや、自分が組み立てたプレイリストに載せた曲だけをひたすら流し、そのリストを増やすために曲をポチッと購入するというシステムに、どっぷりと組み込まれ馴らされているようにも見える。
 
著者は、ラジオというメデイア自身が、そのための努力をしてきていなかった、と指摘する。このあたりに、本拠地としてのメディア論に近づく一つの目印があるのかもしれない。
 
名古屋市にある藤田医科大学病院で、2019年に「フジタイム」という病院ラジオが開始された。著者はなにも、抽象的にこの問題を論じているのではない。実践を細かくレポートすることで、病院ラジオの実際を示すことができるし、そのときにあった問題点や、改善点を事実として取り上げることができる。この細かな報告は、貴重な資料となるであろう。それはまた、患者の反応やリクエストの現実、感想や評価をも得ることができる、というメリットももつ。
 
こうした記録は、これから病院ラジオというものを始めてみたらどうか、という気持ちの起こった全国の病院を刺激することであろう。先陣を切った者が、その情報を明らかにするということは、後に続く者を導く役割を担うであろう。そのための旗印となるだけの価値を、本書は有していると見た。
 
それは、ただの経験談ではないからだ。本の随所で、著者得意のメディア論でよく知られた声を交えている。たとえば、すでに百年前に、リップマンという批評家が、「人はメディアによって得られた情報で世界観をかたちづくり、その世界観をもとに行動している」と述べているという(p169)。これなど、驚くほど現在の情況が隠し持つ危険性を指摘しているのではないだろうか。検索に現れない物事は「ない」に等しいものとされてしまう、という指摘を、著者はここから導いている。困難を抱えている人々の声は伝わりづらい、というのである。
 
また、19世紀末生まれのロシアのパフチンの批評によると、「他者とのやりとりを意味する<対話>は生きることと不可分で、人間の生は他者との<対話>、すなわちコミュニケーションを通した他者との関わりのなかにこそある」のだそうだ。資本主義社会が生み出した、「出口のない孤独な意識」は、「自分一人で生きていけるという幻想」を私たちに植え付けている。<対話>が軽視されてしまうのである(p199)。このような見方は、「人間を、根本的に弱く、互いに依存する存在として捉え、他者への配慮や社会的責任を重視する「ケアの倫理」の問題意識とも共通する」(p200)と評している。
 
病院ラジオは、ただのメッセージを送るだけのものではない。そこには対話を生み出す力がある。見えていない他者との「連帯」も起こっている。そしてもちろん、「救済」とう、受け容れられる気持ち、寄り添ってもらっているという気持ち、そしてそこから自分がいま新しい歩みを、人生を、始めることができる、という勇気が、与えられる道を、病院ラジオの中に見るのである。

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