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教会の問題

教会もまた、ひとつの組織である。だが、新約聖書で「教会」と訳されている語は、私たちがイメージするものとはだいぶ違うように思われる。
 
もちろん、建物のことではない。これは教会の説教でもあり、鉄板の説明である。また、「共同体」であるとか、「信じる人々」のことであるとか、いろいろ注釈が加えられるのも、よくあることである。「呼び集められたもの」という、語源的な説明も、常識的である。そうして「一つ」になった、むしろ人間であるほうに、教会というものの本質はあるものと見られているであろう。
 
だが、いま取り上げようとしているのは、そういう観点ではない。「官僚組織」というような使い方をするときのような、「組織」という意味を当てはめたい、ということだ。
 
一般的な「家庭」というものを考えてみよう。様々な家庭があるだろうが、まあそこそこ幸福な、絵に描いたような家庭としておこう。これもまた「共同体」であろう。「家庭」とか「家族」とか呼ぶものは、建物ではなく、そこにいる人のことを指すものである。その意味では、「教会」という概念と少し似ているところがある。
 
もちろん、家族は血縁が基本である。そこには絆がある。絆というのは、切ろうとしても切れない関係というものだ。だが、現実の教会、社会的な教会は、そうではない。信仰によりつながった関係である。いわば、本来の「他人」が集うのだ。
 
家族は、互いに許し合うものであろう。親が子に、教育や家族のためにルールを定めることは、確かにある。だが、それを破ったら規定の罰をきっちりと与える、という点ではどうだろうか。そういうことをしがちなのは父親だろうか。いわば、血も涙もなく、契約に従った形で、裁きを下す、ということも、あるかもしれない。だが、そのような父親に見えないこともない「サザエさん」の波平は、カツオに厳しいけれども、かなり人情がある。つまりは、「ばかもん」「けしからん」と怒鳴りはするし、時には押し入れに閉じ込めもするが、それでも緩い措置に変更することが普通であろう(最近は押し入れに入れるなんかないんだろうな、知らんけど)。
 
家庭は、きっちり規定を設けて、それに従って処分する、というような場ではない。だから甘やかすことになる、だらしない若者が増える、などという批評があるかもしれないが、概して、家族とはそういうものだ、という共通理解があるのではないかと思う。
 
だが、他人が集まる場では、そういうわけにはゆかない。会社組織を考えてみると明らかである。労働力を提供する代わりに、賃金を供す契約の関係が組織を支えている。その組織の運営のためには、いわば「きまり」を破る者を緩く見逃しているわけにはゆかない。組織を破壊してしまうことになるから、会社の規定に則って、容赦なく罰しなければならない場合が起こる。互いに血縁ではない他人同士が共働して利益を計るためにそこにいるのだから、家族が許し合うような態度では、組織が存続できないのである。
 
ただ、それも組織による。小企業ではどうだろうか。「家庭的な職場」という言葉がある。小さな組織において、あまりにギスギスした規則の適用をしていると、社員は辞めてしまう可能性が高い。家庭をモデルにしたような形で、いわば「緩い」運営をするのではないだろうか。
 
教会でも、そうである。「家庭的な教会」というように、自分の教会を称する牧師は少なくない。それは、規定に従って運営するというよりも、緩い実践をする、ということなのだろう。硬いことを言わずに、安心してつきあえる関係がそこにある、というふうに捉えているのだろうと思う。尤も、牧師がそう思いたいだけで、実際信徒の方ではそうではない、ということも十分考えられるのではあるが。
 
但し、教会が宗教法人であるとなると、守らなければならない規則がある。それは社会的な法律である。代表役員を登録せよとか、年に一度総会を開かねばならないとか、報告の義務づけなど、宗教法人法という法律に則って活動しなければならないのである。
 
また、たとえ宗教法人という形を取らなくても、反社会的な行動をとることは、この社会では許されない。明らかに法に触れることは、いくら教義だなどと主張したところで、社会の中で行えば、刑罰の対象になるのは当然である。宗教法人のメリットをしゃぶりつくし、一部の者の利益を企むということも、禁じられて然るべきであろう。
 
しかし、そうでない限り、教会内の規則というものは、各教会で自由に設定できる。信徒が話し合い、それを受け容れているのであれば、その組織はこういう規則で営んでゆく、という基準があることは、確かに必要であろう。牧師のさじ加減で、信徒を依怙贔屓して扱うとなると、信仰生活が成り立たないことだろう。尤も、なんとかハラスメントという概念で、そうした事例も近年目立つようになってきているから、理論と実践とが常に一致しているわけではない。
 
そうした過ちは、教会規則が緩かったから生じたのだろうか。必ずしもそうとは言えないのではないか。厳しい規則のすき間を縫ってでも、悪魔は忍び込む。むしろ規則通りやっているから、という安心が油断となる可能性もある。人間の過ちの要素は本質的にあるのだから、原因を外的要因に帰すべきではないだろう。
 
牧師という立場も、その教会のぬしであるようなところもあれば、信徒から雇われた代表者、という立ち位置としている教会や教団もある。雇われた立場であれば、信徒の顔色を窺い、意に反しないように気を使うこともあるだろう。教会のぬしである場合は、ワンマンとなり、自分の思うようにぐいぐいと動かしてゆく、というふうになるかもしれない。
 
様々な形があるだろうが、教会が一定の規則をもつにしても、それの適用が厳格であるべきかどうか、には議論があるだろう。厳しさは逆に硬直化を招くものである。律法主義を地で行くような教会は、むしろ珍しいのではないかと予想する。つまりは、「家庭的な教会」のように、弾力性をもたせて扱う、というのが多くの教会のケースではないか、と見込んで然るべきではないだろうか。
 
いやいや、この教会は厳格に扱い、手続きをきちんととって云々、というところもあるだろう。それが悪いというつもりはない。ご尤もなのである。だが、そこに「赦し」というものが忘れられているとしたら、果たしてそれが「教会」であるのかどうか、という議論は起こってよいかと思う。あるいは、「愛に基づく赦し」という視点が忘れ去られていないかどうか、点検することには意味があるのではないか。もちろん、うちは自由で多様性を重んじますよ、という看板を出してかきながら、いざというときには「規則ですから」という態度をとるような二枚舌を使うところもあるから、点検というのは、そういうところまで考えることを意味している。
 
思えば、福音書のイエスは、律法を破っていた。もちろん、律法を超えていたのだ、などという解釈があることも分かるが、さしあたり現象的には、間違いなく当時の律法を破っていた。特に安息日規定は、当時の律法理解に反していた。死刑にされるべき人を見逃しもしたし、社会的地位のある人々から見れば、人心を惑わす新興宗教の教祖と見えていたとしても、何の不思議もない。
 
律法学者やファリサイ派の人々は、律法を厳格に守ることを是としていた。それが神に仕えることだと信じ込んでいた。イエスは、そこへ「愛に基づく赦し」をしばしば示した。それが、十字架刑の大きな原因となった。イエスを死刑にした人々は、律法という規則に忠実に従おうとしたのだ。
 
恐らく、愛と赦しの体験のない人がお勉強のレポートを発表するだけの「説教」を毎週聞かされている組織では、この「家庭的な」とも重なるような「愛に基づく赦し」というものが、すっかり忘れ去られてゆくようになるのではないだろうか。中には、教会内のごく一部の人間たちが、そのような状態になって、教会をすっかり掻き回して、破壊した例もある。私はそういうことには加担できなかったから、糾弾された人から、私の姿勢の中に聖書の愛を感じると言われたことがある。私はそんなつもりではなかったが、いまにして思えば、そのように感じられたことが、分からないでもない。しかし、私はその破壊行為を止めることはできなかった。そればかりか、理由はあったが、闘うことなく、そこから逃げてしまった。イエスを見捨てた弟子たちの姿と我が身を重ねるような思いからは、逃れることができないでいる。
 
キリスト教会という看板を掲げていても、そこが愛のない組織になろうとしている場合があるのは、残念ながら事実である。それが起こることは、避けることができない。但し、それが疫病のように蔓延して、しかも自覚症状がないままに、こちらが正常だ、というように、曲げられたキリスト教が知られてゆくようなことになると、恐ろしいと思う。キリスト不在の教会は、私の印象では、以前より増えてきているような気がする。人間臭い組織臭よりも、キリストのかぐわしい香り漂う場として、教会は社会の中にキリストを証ししていってほしいと願うばかりである。

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